万葉の精神(中河興一)

 『日本的』ということがしきりに論じられている。だが日本的とは鎖国ということではあるまい。

 世界の中にあって日本を見るということであって、日本を世界との関連にあって自覚するということである。今日まで我々を支配したものは外国への拝キであり、外国への従属でありすぎた。さらに悲劇なる事実は、滔々たる唯物思想の為に、人はうるおいある情熱というものを失い、人間生活というものを、闘争の原理によって、置きかえようとした。


<中略>


 真に決意あるものは、いかなる悲劇をも覚悟している。私は万葉を読むたびに涙を覚え、我々の美の伝統に堪へがたいものを感じる。私がここで取り扱ったものは政治でなく文学である。美の問題としての万葉の精神に到達しようとする事であった。

 しかも万葉というのは、既に単なる日本ではなく、ギリシャと共に世界の古典において、最も光栄ある美の伝統を屹立している。私はこのことを宣言し、宣告しようとする。さらにそれは古典であると同時に、現在百千の泡沫を越えて、尚お未来の遠くを見ている。

 私は万葉こそ、我々を生かす力であり、我々自身であり、日本であり民族であると信じている。

 漫然と『日本的』を叫ぶ前に、我々は謙虚にこの壮大悲痛なる時代の性質に沈潜しなければならない。我々は性急に否定し、求める必要はない。

 日本とは『現在にある』とか『未来にある』とか論ずる前に、現在と未来とが何によって成立し、如何なる性格によって生かされているかを、また生きつつあるかを、考えた方がよい。私は今日西方の最も良識ある科学思想の後に此処に来た。

 ほとんど手探りに近いものであるが、吾等地上にある者の喜びの日の為に、私はこの書を心燃えて用意した。

七月十日

著者


(「万葉の精神」自序より。旧仮名使い旧字体を一部変更。)

ところでこの序文において特に共感を覚えるのはこの一文でした。

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私は今日西方の最も良識ある科学思想の後に此処に来た。・・・