はてな村が滅んだただひとつの理由

amamako.hateblo.jp

 

このコメントに対して俺は

Phenomenon まとめると飯が食えないからだな。 

 コメントしたんだが、もうちょっと書いてみたくなった。結論はやっぱりコメントのとおりなんだけど、それだと一言で話が終わってしまう。もうちょっと丁寧に論を重ねてみよう。

 

言及先のブログ記事とか、その他のシロクマさんの書簡とかもそうで、はてな村がなんか10年村位前から衰退しているよねという現象に言及しているんだけど、じゃあなんでその現象が起こったのか、衰退しなかったコミュニティ、勃興したコミュニティとの違いは何だったのかというところまではあまり考察できていないように感じる。

せいぜい、ネットの大衆化の流れのせいだよね…みたいなふわっとした感じでしかない。

それに対してもうちょっと真面目に考えようぜっていう踏み込みがamamakoさんの記事ではあったんだけど、これを読んで俺は思った。見事に語るに落ちていると。だって人文系サブカル少年が、「論座」や「ユリイカ」にあこがれて、はてなで自分も認められるかもって、はてなに入ってきたらさ、その人がもし才能を開花させて成功したら「論座」や「ユリイカ」に行くでしょう。それって結局踏み台的な感じになっちゃうから持続可能性がないよね。

 

それでね、持続可能性って話になると、必ず考えないといけないのは、「それってお金が儲かるか」「それでご飯食べられるのか?」ということなんだよ。これが一番はてな村が向き合ってこなかったことだとも思う。

 

はてな村にいて成功した人、「シロクマさん」「あじこさん」「ふろむださん」。はてなで飯食っている人ひとりもいない。

シロクマさんは自著を出してるけど、それって出版業界だし、あじこさんははてな村奇譚を「文学フリマ」売ってたし(買いました。面白かったです。)、これは同人界隈だよね。はてなで一番才能ありそうな「ふろむださん」はまだブログあるけど、あんま更新してなくてtwitterの方で活躍されてるよね。本も出してる。

 

一方で今でも活発なユーチューバーの界隈はどうだろうか。

日本人のトップのヒカキンはちゃんとユーチューバーで食べていて、いまでも活発に動画をユーチューブに上げている。ヒカキンは「テレビに出れるようになりたいから似たようなことがやりたくてユーチューブをやっている」人ではないから成功してもいなくならない。仕事としてやっていけるから抜ける必要もない。ヒカキンを見た子どもたちはユーチューバーになりたいと思うから裾野がどんどん広がってコミュニティーは盛り上がっていく。

これこそ持続可能性のあるコミュニティじゃないだろうか。

 

 

比較すると違いは明らかだよね。

  • ユーチューバーは成功したらそこで食べていける。コミュニティーでの成功が経済的成功とも結びついている、といういい方もできる。はてな村で成功してもそれだけでは食べていけない。
  • ユーチューバーは「ユーチューバー」になりたい人たちが入ってくる。はてな村は「ユリイカ」とか「論座」とか単著とか何でもいいけどはてな村以外に行きたい人が入ってくる。

 

 

あと他にも比較するとしたら自分の知っているところでは同人界隈とかも持続可能性は高い。竜騎士07ひぐらしで成功したあともコミケに出続けていたし、TYPEMOONもいまだに出展している(企業参加だけどさ)。

 

もちろん、「自分の育ったコミュニティーへの思い入れがあるから」みたいなバックストーリーを信じてもいい。信じてもいいんだけど、それが一時的な慈善事業ではなく続けられるのはペイできるからというのは大きい。

 

やったことあるから知ってるけど、同人界隈はほとんど儲からない。9割は赤字だと思う。それでも衰退しないのは、トップ層は儲かっていて、そして儲かっているから出ていかないから。そういうトップ層はスターで、人を引きつける誘蛾灯だから。

俺はふろむださんとかも綺羅星のような才能だと思うのだけど、なぜこうはなれなかったのか。答えは単純だ、儲からないから。

 

はてなブログが衰退して、noteの方が盛り上がっているのもそういうわけだ。はてなブログでは食っていけないが、noteが売れば結構な収入が見込める。はてなブログにはペイメントゲートウェイはない。あるのはアフィリエイトだけだ。

 

いまさら思うのは、はてなアフィリエイトで儲けようとして批判されてた互助会の人たちが一番地に足がついていてはてなに根を生やそうとしていたのではないか。ということだけどそんなこと考えてももう遅いのである。

 

結局地面にしっかり根をはやして、ユーザが飯が食えるサービスじゃないと滅びるのは当然の定めのように思える。UGCで盛り上がったニコニコの近年の衰退も似たような話なんだろう。こちらについては詳しくないけど。あとはPixivとFantiaとかね。

 

まあただ、フリーミアムでやってきたWeb1-1.5あたりのサービスにとってはUGCで課金機能を作るというのは結構ハードルが高い話なのかもしれない。角川とか集英社にシステムを提供して売上を上げていく株式会社はてなのやり方はまあまあうまくやっているといっても良さそうな気がする。

 

まともなカイロプラクティック治療院をみつけるためのただひとつの簡単な方法

カイロプラクティックで肩こりや腰痛を根本的に治療したい! でも当たりハズレがありそうで心配」という人のために、まともなカイロプラクティックを見つけるための簡単な方法を紹介します。

やり方だけ知りたい方は一番下までスクロールして「結論」を読んでください。

 

なぜカイロプラクティックか 

肩こりや腰痛の治療はマッサージや整体をしても対症療法か自然治癒の促進にしかなりません。対症療法以上の治療を行なうにはカイロプラクティックがオススメです。

カイロプラクティックは手を使用して背骨を矯正することにより体の不調を改善する治療です。アメリカ、イギリス、オーストラリアなど約40の国で認められ法制化されています。また効果が科学的に認められています。

個人的な経験ですが、カイロの治療を初めて受けたあと、慢性的な肩こりの状態が劇的に回復して数週間以上その効果が続きました。

マッサージなどを受けていたときは、当日は痛みがマシになっても数日で状態が戻ってしまうのが普通だったので、カイロの効果に驚かされました。

 

日本のカイロプラクティックの問題点

日本では治療院の質にばらつきがあるのが問題です。しかもカイロは骨に力を入れ大きく音がなるような治療を行うこともあるため、下手くそなところに行くのはかなり怖いです。実際事故の例もあります。

では、そもそもなぜ質のばらつきがあるのか。それは、日本では保険適応もなくしっかりした法的な開業資格がないためです。

資格がないので、恐ろしいことに日本では素人でも誰でもカイロプラクターを名乗れます。

一方でアメリカではカイロプラクティックの治療院は医療機関と認められていてカイロの治療を行なうには厳しい資格を取る必要があります。

たとえば、大学レベルの基礎科学1〜4年と、それに続く4年間のフルタイムの博士号プログラムのトレーニングなどです(https://en.wikipedia.org/wiki/Chiropractic_education#Training )

つまりアメリカのカイロプラクターは5から8年、専門機関(大学)で養成期間を経てカイロプラクターの資格を得ている専門家。お医者さんなんです。

一方で日本では素人なのかちゃんとした専門家なのかの見分けが付きません。

でも大丈夫です。探し方を知っていればまともなカイロプラクティック治療院を見つけるのは簡単です。

 

結論 

簡単です。日本で資格や規制が参考にならないならアメリカ(WHO)基準の資格を持っているカイロプラクターのいるカイロプラクティック治療院に行けば良いのです。

日本でそれに該当するのは、海外でカイロプラクターの資格を種取得した人か、「東京カレッジ・オブ・カイロプラクティック」の卒業生のみです。

でも、近所のカイロプラクテック治療院の先生がどこの学校の卒業生なのかをいちいち調べるのは面倒ですよね。

大丈夫です。東京カレッジ・オブ・カイロプラクティック」のサイトから卒業生の治療院が検索できます。

自分の住んでいる地域の近くにある卒業生の治療院を検索しましょう。都道府県で絞り込みができるので自分の県にあるかどうか調べてみましょう。

https://www.chiro.jp/offices.html

 

私はこの学校の手先でも何でもないんですが、肩こりや腰痛に悩んでいる人は早くこのリストにある治療院で治療を受けてほしいです。

治療受けて実感しましたが、肩こりや腰痛は人間の生産性をめちゃくちゃ下げています。痛みを緩和させようと痛み止めを飲んだら今度は肝臓に負担がくるので飲みすぎるのはやめたほうがいいです。

生まれたときから肩こりの人はいませんし、諦めて痛みと一生付き合って行く必要は無いはずです。

そろそろ根本的な問題に取り組みましょう。

貧乏人の経済学 ~リアルに想像できる貧困

2019年にノーベル経済学賞を受賞した研究者の一般人にも読める書籍が出ているので読んだ。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/10/post-13229.php

 

そもそも貧困とは何だろうか

貧困とは、人間の能力が十分に発揮されないこととそのための将来の展望が無いことである。

 

例えば貧困は食事のカロリーが足りないことではない。本書ではその証拠として、貧困世帯に主食の補助金を出しても線形に世帯のカロリーは増えないことが示される。

病気などを避けるためのものがないことそのものでもない。蚊帳を購入して使用したら将来の世帯収入が15%増えることがわかっているのに、蚊帳を無料で配布しても、次の世代の蚊帳の使用率は数%しか増加しないことがわかっている。

 

例えば、貧乏人は主食の値段が補助金によって下がるとそれによって余ったお金を、主食を増やすのに使うのではなく、もっと高価な食事に使用する。

貧乏な人が食料を選ぶときに(カロリーごとの)値段の安さや栄養価の高さで食事を選ばないのは、栄養価の高い食事を取ると将来の平均賃金があがることが、論理的には正しいとしても、味の美味しい食事の方が取りたいからだ。

これは自分に置き換えてみれば、日本でも誰でも理解できる。

仕事でヘトヘトになった月末の給料日に、わざわざ健康食品のレストランに行く人はあまりいない。ちょっと美味しい、そして尿酸値が上がりそうな、レストランや旨い酒を飲みたい人は多い。

金曜の夜に街に出てみれば、ビタミンやミネラルが豊富な食事にお金をかける人は日本でもそれほど多数派ではないことがわかる。

 

病気の問題については、こういう問にしてみるとわかりやすい。

厚生労働省によれば

身体活動量が多い者や、運動をよく行っている者は、総死亡、虚血性心疾患、高血圧、糖尿病、肥満、骨粗鬆症、結腸がんなどの罹患率や死亡率が低いこと、また、身体活動や運動が、メンタルヘルスや生活の質の改善に効果をもたらすことが認められている。更に高齢者においても歩行など日常生活における身体活動が、寝たきりや死亡を減少させる効果のあることが示されている

https://www.mhlw.go.jp/www1/topics/kenko21_11/b2.html

 だが一方で高所得者層も含めて世界の4分の一の成人が運動不足である。

世界で成人の4人に1人が運動不足による疾患リスクに直面しているとみられることが、世界保健機関(WHO)の研究チームの調査で明らかになった。14億人を超える成人が座りがちな生活による運動不足が原因で心疾患や糖尿病、認知症、一部のがんを発症しやすい状態にあるという。詳細は「The Lancet Global Health」9月4日オンライン版に掲載された。

https://www.carenet.com/news/general/hdn/46720

 

なぜ、運動が健康に良くて将来の病気のリスクも下がるしメンタルにもいいのに皆やっていないのか?

それには、なぜ貧乏な人が安価で効果があるのに蚊帳や腹下し予防用の塩素剤を使用しないのかとおなじ簡単な答えがある。

めんどくさいからだ。

実際は、「他の人もやってない」とか「外が寒い」とか「ほんとに健康にいいのかわからない」とか「疲れる」とかいろいろな言い訳に周りをデコレーションさせてグダグダ言っているのが人間と言うものだが、実態はただめんどくさいだけだ。

これだと見も蓋もないのでもうちょっとそれっぽくいうと将来のことを見越していま頑張るのは人間にとって非常に精神的ハードルが高いのだ。

ここまで、貧乏な人、貧乏人と、まるで他人事のように書いてきたが結局なかにいるのはおれらと同じ人間である。

 

このめんどくささをなんとかして、自分のために行動するにはまず正しい情報が必要だ。

そもそも何を行えば将来の自分の利益になるか情報がないと行動はできない。一方で「運動をすれば健康にいい」という情報があってもそれと同時に「運動が健康に良いというのは、ランニングシューズ業界の陰謀だ」などと嘘情報が溢れていたら人は、めんどくさいことをしたがらない。

次にやれることは「めんどくささのハードルを限りなく下げる」ことだ。運動の例で言えば、家にランニングマシンを設置するとか、運動をゲームにして遊びとしてやる、とかになる。貧困対策で言えば、下水道の整備をすると塩素剤をわざわざ飲水に投入する必要がなくなるので、めんどくささはほぼゼロになる。これにはインフラの投資が必要だ。

最後に最も重要なのが将来の展望つまり将来はもっと生活がよくなると言う希望である。

将来どうせうまくいかないとか、借金漬けの生活からどうせ抜け出せないとか、どうせいい大学や職場は手に入らないから勉強は無駄だとか。

そういう絶望ほどでもないが反希望とでもいうべき精神状態の人が将来のためにこつこつ何かを行うのは、困難というよりもはや不可能といってもいい。

しかも、未来の結果を待たなくても、周りからどうせだめだと言われたり自分でそう思っている人間は、実際のところ今現在のパフォーマンスすら下がるのである

「将来の展望がなく希望のないさま」、を貧困と言ってはどうか

もはや将来の展望がなく希望がなければそれはある種の貧困状態といってもいいのではないだろうか。

貧困の正体とはある典型的な社会状態の中の個人の精神状態なのではないだろうか。

それならば金持ちで将来の展望がない人はどうなんだといわれるかもしれないが、それはお金ー【貨幣】自体が、将来使用できるという信用の化身である構造を見逃しているからである。

実際のところ貧乏人はお金がないから将来に希望がもないというのは正確な表現ではなくて、貨幣の信用価値それ自体が、ある種の将来の展望そのものなのである。

書籍

貧乏人の経済学 もう一度貧困問題を根っこから考える

https://www.msz.co.jp/book/detail/07651.html

 

リンク先から序章と終章を読むことが可能。

このブログに書かれたようなことはあんまり書いていないのだがぜひ読んでいただきたいです。現場から実証研究で貧困に切り込む素晴らしい本でした。

 

貨幣については負債論がおすすめです。今年最も読んでよかった本。

https://www.amazon.co.jp/dp/475310334X/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_G3lcEbN1XBAPE

「無断コピー以外」を禁止するライセンス

2005年 1月 6日
記事ID d50106
人を引きつけるだけでは情報は生きない。 「ぬるさ」とは何か、なぜそれが自滅を招くのかを明確にする。

人気がある情報ほど滅びやすい現実

公開した人がコストを払うというWebの仕組みに問題がある。公開しない方がコストが安い、さらに、人気が無い方が有利というのは、本質的におかしいだろう。

脱中心ウェブAsagumoWeb の開発者はそう書いている。

参照の多い情報はサーバ負荷により危機に陥る。

トラフィックが増えることの問題はそれだけではない。 つまらない一言が「名誉毀損」「営業妨害」とされたり、 たった一枚の写真をめぐってアカウントごと削除されたり、 まったく同じ情報を送信していても、辺境のページでやればまるで問題にならないことが、 トラフィックの多いページでは致命的な問題になりやすい。

「ぬるさ」とは何か なぜそれが自滅を招くのか

吸うだけのリーチャ。 BTの普及で、クリックすれば何でも落とせると思うリーチャがわらわらと増えた。 リーチャは受益者だが、大部分のリスクを負うのはリーチャではない。 ウェブ全体のトラフィックの何十パーセントとかいうのは普及しすぎで、 「迷惑」でさえある。システム全体が滅べばリーチャ自身も存在できないのに、 そこがリーチャの浅はかさ、宿主を病死させて自分も連鎖死亡する寄生虫のようだ。

別の言葉で言うとヌルさの増加で、実は結果的に多くの受け手(それはライト層自身も含めて)にとってデメリットが生じ始めている (「今、そこにあるオタクの危機」 第6回)。 コミケにおいてもこの「パロディ同人誌」と「版権」の問題は幾度と無く取り上げられているわけで、「黙認はされているが、オールグリーンな訳ではない」。常に危険と背中合わせな状態が続いているだけなんですが、この辺に対する認識がものすごく低い。

ぬるいうちはまだ良い。冷え切ってはいないから。 けれど何もしないリーチャが多いなかで、全体のぬるさを保つために、どこかが極めて高温度になる。 かつてのスーパーノバが象徴的な一例だ。 そのどこかが崩壊すると、全体が無に帰する。

ぬるさを許容するということは、すべての卵をひとつのバスケットに入れるようなものだ。 そのバスケットを地面に落とすと、すべての卵が一瞬で崩壊する。 ぬるさの本質も「一極集中の弊害」であり、問題は全体の平均的ぬるさそのものではない。

リーチャの多くは、たぶん創造的なことはあまりせず、受信者に徹しているのだろう。 しかし受信に徹するばかりで、中から技術がある後継者が出ないと、そもそも送信するものがなくなってしまう。 商業化に成功しても「受信させて金をとれればいい」というだけだと、その産業そのものの存続にもかかわる。

権利吸い上げ型産業は、吸い上げる場所の後継者を育てなければならない。 さもないと権利吸い上げ型産業も、自分の首を絞めるリーチャになりかねない。

高層ビルを建てる場合、優秀な技術者や現場監督――ここまでは手を抜いても何とかなるなどと判断できる者――が中間にいて、 安い賃金で働く労働者が下層にいて、成り立つわけだが、 ビルを建てるぞと決定して建つ前から賃貸権がいくらで売れるかなど計算している上層のほうは、謎のベールに包まれている。 漫画やアニメでは誰が中間で、誰が下層で、誰が上層だろうか。必ずしも企業批判ではない。 企業を営利的に動機づけて製作を行わせる「視聴者」こそ最上層かもしれない。

注意: 「ぬるさ」というと「冷たい」から「熱い」に至る一次元量のイメージがあるが、 実際には「ぬるさ」は二次元量でモデル化するべきだ。この問題は末尾の「付録」で扱う。

人を引きつけるだけでは情報は生きない

情報それ自身の力が吸引的に働くと「中心」を発生させ、バランスの偏りを招く。 優れた情報が、
人間を引きつけ間接参照させる「求心力」で終わらず、
その人間を触媒として、実体をコピーさせる「拡散力」を持つような、
実装が望ましい。
「優れた情報」ほど冗長的に保持されるべきだ。 そのサーバが消えるだけでウェブ全体から情報が失われるような脆弱特異点に貴重な情報を置く実装は好ましくない。

素晴らしい情報は往々新しい知見を含んでおり、 新しい知見は従来の常識を否定するがゆえに、 予期せぬ各方面からの攻撃にさらされやすい。

現在でも感染力の高いミームは拡散するが、
ウェブページが単にポイントされるのでなく実体がコピーされるなら、
ミームの動き方が作者中心から作品中心に変わる、
という違いがある。

どこにアップしてもたった3年後の安心感も持てないのが現状だろう。 自前のサーバだって地震津波ですぐ潰れる。

実体のコピーを行う方がミームの保存に有利であることが明らかでありながら、 参照にとどまる理由は何か。 権利が作品にではなく人間に従属していた古い制度が、制度的障害になっている。 リンクによってポイントはできるが、 作者に許可をとらないと実体をコピーできない、という古い信仰の下では、 情報を評価し肯定することから、リンクが生じて、情報の生存が脅かされる。 高く評価することが相手に迷惑なのだ。

このような実装は不自然で、直観的にも不合理だ。

だが、優れた情報は無視したほうがその情報のためになる、参照すると失われる、などという変なことが本当にあるのか。

この現象は多くのかたが一度や二度は経験しているはずだ。 巨大なトラフィックの原因となる場所から直接リンクしたせいで、せっかくの情報が消滅してしまうことが実際によくある。

「無断コピー以外」を禁止するライセンス

そうなるのは「リンクが本質的に悪い」のではなく、もっとさかのぼって、人間がコピーに対して心理的抵抗を感じるシステムに問題がある。 けれども、それに対してアナーキーな破壊的行動をとるのではなく、従来のシステムの中では、作者側から次の3ステップを踏むのが望ましい。

まず転載を明示的に「許可」する。 実際には、作者が「許可」「不許可」を論じるような、 作品に対する作者の上位性自体を認めるべきではないが、まずは人間のロジックで「許可」する。
次に「このページは都合でもうすぐ閉鎖させていただきます」などと宣言して、実体をコピーしない限り失われることを強調する。
さらに、意識して、わざと、リンクが張りにくい予測不可能で、めちゃくちゃなメモの書き方をして、ポイント自体を難しくする。 (これは実験的に行う。)
それほどまでに人間は転載に対してひどい罪悪感をすりこまれており、かれらは明示的に許されている行為をするのにさえ意識的努力を必要としている。

この罪悪感は一部既得権者の権益保全には役立つが、 ウェブページを含む情報一般においてはネガティブに作用する。 既に見たように、実体をコピーせずに参照で済ませる結果を招き、潜在的に参照先にリスクを集中させる。

結局、心理という不安定要因を持ち動作が一定しない人間など初めから信頼せず、 情報を利用すると自動的・機械的に実体がキャッシュされ拡散するように、システム全体をそういう設計にすることが望ましい。 もっとも、そのような新しいシステムはそれ特有の新しい問題を生じるだろう。

人間の心理的困難があまりに大きいようなので、 それに対抗するために、次のような新しいライセンス形態を思いつくほどだ。 いわく、「この作品は、無断でのみ、コピーを許可します。許可を求めた場合には常に不許可にします。したがって、 この作品をコピーする唯一の合法的手段は、無断コピーです。それ以外の仕方でコピーすることはライセンスの侵害になります」

付録

付録A: ぬるさというより薄灰色

情報を消費して楽しむのもいいが、たまには一次的な源になるのも大切だ。 「fooという技術はどうですか」と何で第三者に聞くのだろう。 疑問に思ったなら自分で試してfooテストレポートを公開すればいいではないか。

そして、そのとき重要なのは最初にやるヤツは間違っていてもいいということだ。 間違っているかどうか判断できるだけの知識があれば、最初から訂正している。 「目」は「これは見間違いだろう」などと自分で考えなくていい。 見えたイメージを視神経に流しておけばたくさんだ。 あとは「脳」にまかせればいい。 頭のいい人は「判断作業」に忙しいので、いろいろ新しいものを見て回る暇がないのだから、 われわれバカが適当に仮説を書いておけばうまく役割が分散される。 バカはバカに徹し、知識屋はバカの書いた情報の二次的批判や補足に徹すればいい。

バカはバカなことしかできないし、知識屋はバカなことができない。 それでいい。

「ぬるい」というより、「薄い灰色」だ。 「すべてが熱くなれ」という趣旨ではないから。 「もっと赤は赤っぽく、緑は緑っぽく、青は青っぽく、とことん徹しろ」という趣旨だから。 「あるひとつの色だけが正しく、それ以外は間違っている」という一次元の尺度をこのミームの生態系に持ち込むな、 ということだから。

付録B: 均質化としての「ぬるさ」

利用者ではなく情報の発信側ばかりに責任が偏ると、ひいては法務部を持つような大企業しか情報を発信できなくなり、 インターネット以前の大味のつまらない時代に(トポロジーを変えただけで)逆戻りしてしまう。

Winny技術の研究開発と実装を行った東京大学の先生にすぐたくさんの支援カンパが集まったのも、バランスが崩れていることを無意識にせよ感じてではないか。 「自分たちだけ楽しんで、苦労してその場を作ってくれた開発者がリスクを負うのでは申し訳ない」 という感覚があったからではないか。

ある意味、自分が Winny を使わなかった理由もそうなのかもしれない。 情報を作るのに急がしすぎ、ダウンロードできても、ゲームをやったり映画を見る時間がない。 情報を出せば出すほど、知らず知らずのうちに、吸い取られる下層の立場になってしまう。 例えば「作る」研究をしているのに、「受け手」側の、初心者の、ぬるい質問が来る。 情報は情報があるところに集まるので、その処理に追われ、 最終的には「その技術を詳しく紹介していながら、実際には、その技術を実用的に活用している暇がない」という変な状態になる。

ぬるい読者はブックマークを開けば、いつでもそこに新しい情報が書いてあると、それを当然のことだと思っている。 「あ、まだ更新されてない。速く更新しろよ」などと勝手なことさえ思う。 けれどこんなものはいつ終わっても不思議ではない。 ひとつを消費しつくしたら、また別のものを見つければいい、というのもあるだろうが、 もしそういうことが続くと、最終的には、クレイジーなサイトが減って、ウェブ全体がなまぬるい均質の倦怠に陥る。

実際には変わり者は常に一定割合で新規出現するのでそうならないが、均質化傾向は感じられる。 毎日、巡回先からピックアップした「今日のリンク集」を作って短い感想を書いてるだけの、 ミーム的に参照による「中継だけ」のページの割合が増えている。そういうページにも価値があるし、 この欄にもしばしば「中継だけ」のリンクを張るが、 「それだけ」のページばかりになったらつまらない。

「ぬるさ」の本質について、 「中心的存在の発生とそこへのポテンシャルの過度の集中だ」と指摘した。 しかし、単なる均質化も「ぬるさ」に通じる。

演習: ある種の分布の偏りが「ぬるさ」の本質である、という指摘と、分布の偏りをなくす「均質化」も「ぬるさ」である、という主張は、 外形的に不整合である。「色モデル」を使って、この問題はどう説明できるか。 「ぬるさ」を一次元量でなく「色相」と「色の濃さ」の二次元でモデル化せよ。

付録C: 日本の不戦敗

NECも脱中心のプラットフォーム開発に本腰を入れるようだ。 2005年は日本もP2Pで巻き返しを図る年になるのかもしれない。

上記NECのプレスリリースでも、一部のヘビーユーザが実験的にやってきたことが技術を切り開いてきたと指摘しているが、 しかし、
?Winny事件が終わる、
?判決の中で幇助の構成要件をあいまいさのない表現で示す、
の二つが満たされない限り、あまり実験的なこともできず、自己防衛・自粛ムードが続くだろう。 ITの世界で1年の足踏みはかなり大きい。 数年となると、世界市場ばかりか日本国内市場も事実上放棄することになる。

ユーザが勝手にやることで、何をやったら幇助と言われるのか。 メッセンジャーひとつあれば、どんなファイルでも(必要なら分割したりASCIIにエンコードして)どこへでも送れる。 そういう行為に使われていることを「認識しつつバージョンアップ」とか言われても、 そんなもの開発者がエンドユーザ以上に技術の可能性を多方面にわたって認識していることは当たり前。 絶対に変な使い方ができない道具を作れ、というほうが難しい。

そういう意味でも公開した人がコストを払うというWebの仕組みに問題があるというのは真理だ。 ソフトや情報を公開した人がリスクを負うのではなくて、使う人がそれぞれの使い方に対してリスクを負ってほしい。

事件の真相は謎だが、誰かがウィルスに感染して内部資料が漏れたという個人的な失敗を組織ぐるみでフォローするために、 日本の進歩にブレーキをかけたのだとしたら、偶発とはいえ国全体にとってアンラッキーだ。 脱中心・分散は現在のウェブのかかえる根本命題で、 今後、多品目の巨大ファイルを長期に渡って流通させる必要があるだろう。 この巨大な新市場、 音楽・映画配信の分野で日本は「手段」を開発できない。 まだテレビのないテレビというものを誰も知らない世界を考えてみる。 そこで日本は世界初のテレビ放送システムを作って、世界から尊敬・感謝されながら、経済的にもうるおう技術力があるのに、それができない。 「テレビ局が違法番組の放送に使う可能性があるから」という変な理由で。 土地も物理的資源も乏しいが技術力はある日本にとって、仮想空間の開拓で世界をリードできるなら、とてもいい話だ。

インターネットでは国境を越えて情報が流通するのが当たり前だ。 もし仮に日本語圏のみターゲットにしても、海外在住者が「金を払って買いたいのに買えない」としたら、 ビジネスの根本が間違っている。売るコストは同じなのに、買いたい人に買わせないのはおかしい。 つまりノードは世界に分散する。けれど、P2PクライアントやDRMを販売元ごとに何万種類も使い分けるのはあまりに不便だから、 少数の新技術が世界全体の標準になるはずだ。日本はこの巨大市場で大事な時期に不戦敗になろうとしている。

もっと高レベルの意志で、初心者にまでこんなものが普及するのは良くない、という判断で司法当局が動いたのなら、 まだ理解できる。放置すると、別の意味で、短期的に日本経済に悪影響を及ぼしかねないからだ。

何だか分からないベータがリークするととりあえず入手してみる、起動してみる、そういうある意味クレイジーなほど好奇心旺盛なヘビーユーザがいて、 やがて誰もが安心して歩ける広い道ができるのだろうが、実験的に始めたことがあまりに大衆化すると、その段階で、 また別の問題が出る。実験は実験、危険なもので、むやみに大勢参加すると意味も変わってしまう。

付録D: 外側に向かう力と、内側に向かう力

「無断コピー以外」を禁止する、ということは、究極的には「リンク禁止」「全文転載はかまわない」ということだ。 価値ある情報と思ったら、リンクしないでそちらでどこかにキャッシュしてくれ、ということ。 なぜその方がいいのかは既に述べた。 これは通常の常識と逆になる、という意味でもそれなりにおもしろいが(通常の常識ではリンクは自由にしていいが、 転載はいけないと教えられていた)、それよりもっと重要なのは「作者中心から情報中心への転回」という反転の構造だ。

それをベクトル的な言葉で言うと「一極集中・求心」から「分散・拡散」への転回でもある。 情報の発信とか芸術の創造が「エクスプレス」「外に絞り出す」ことであるという基本的な枠組みを見ても、 「分散・拡散」こそが自然な力の方向だ。ウェブで言えば、リンクよりコピー(キャッシュ)が正しい。

「一極集中・求心」は創造自体のベクトルではなく、創造に対する対価・報酬・お金・名誉などの流れのベクトルであり、 したがって、権益を保護する著作権システムと親和性が高い。著作権は独占権であり、独占は一極集中だ。 それはまた、作品が絶版になりやすい現実とも重なる。権利者、例えば出版社という脆弱特異点が発生するため、そこが出版をやめると、 たちまち品薄になり、数年後には入手困難になってしまう。独占は、純粋な意味での情報の生存に対しては、ネガティブに作用する。 ただし、独占は、もちろん経済的な原理によって正当化されるか、少なくとも、歴史的には正当な理由がある。

表現は本来外に向かうもので、外から作者に向かう逆方向の流れは、むしろ副次的なものと考えられる。 求心的な力は、最大でも外へ向かう力と「対等」の大きさであるべきで、脱中心系における匿名的発信の場合では作者に向かう力はゼロになりうる。 両方向の力の関係、という視点から、いろいろなシステムを見つめ直すこともおもしろいかもしれない。

「無断コピー以外」を禁止する、ということは、転載について許可を求めたり報告することさえ否定する態度だ。 そのような極端な態度が正しいのだろうか。

これは倫理的・論理的・法的などに正しい・正しくない、という問題ではなく、 抽象的なモデルにすぎない。

しかし、もし報告義務があったり、許可を得る義務があるなら、有用な発信を行う者のところには「報告」「問い合わせ」が殺到する。 特に後者の場合、情報を広めるのにいちいち「承諾」の返信が必要になる。 リンクの場合同様、有益な発信をすればするほど、発信それ自体と無関係な事務に追われたり、負荷がかかって、不利になる。 「無断コピー以外」を禁止するという態度を、抽象的に言い換えると、 純粋に外への表現に徹し、その表現について、自分に向かってくる本質的に無意味なベクトルをすべて止めようという姿勢だ。

繰り返すが、これは単なる抽象モデルにすぎず、今ある大企業がこのように変化すべきだといった非現実な主張をしているわけではない。 ただ、このモデルを使うことによって、いくつかの複雑に見えた問題が透明に見渡せ、 思考の節約とより深い洞察が可能になるものと信じる。

追記

このページ内容は自由な転載が可能です。
また都合によりこのサイトは間もなく閉鎖されます。

表現手段

表現手段

表現手段が失われた。
何も無いのである。
あるプラットフォームが失われたら、同じ手法でしか再現できないある表現が失われる。
極私的なものであるから、そのへんは繊細なのだ。
あの青い絵はある絵の具が失われたら表現できない。
ある電子音はある骨董品PCがないと再現できない。
そんな感じ。
そんな感じでこ々数年苦しんでいる。

いや苦しんでいるのはいつもどおりだけど、出口が無くなった感じ。
起承転結の欠がなくて、バッドエンドでいいから落ち着かせて欲しい。


どこかにあるはずである。
再構成できるはずである。

孤独と承認ゲームについて


昔は逃げる場所が無かった。
家、学校、街、家、学校、家、学校、街、家、学校……
だから私たちは自分の中深くに逃げ込んだ。
もしそのとき他に逃げ込める「人間関係」があったら、私たちはそこに入り浸ったに違いない。
例えば大人の世界でも認められる素晴らしい才能だとか、夕暮れの廃屋での密会だとか、頑張らなくていいけどやたら居心地の良い部活動だとか、屋上の隠れ家と秘密の仲間だとか、異世界への扉だとか、誰も知らない秘密の関係だとか……そんな物は現実世界には一つも無かった、あったとしてもそれは人間の手脂にまみれた醜い姿を晒していた。
フィクションの中にしかなかった。
小説、漫画、ゲーム、アニメ……それは孤独な遊びだった。
どう見てもただの代替物で紛い物の偽物だった。
それは私たちの中でだけ本物だった。
目が覚めるといつも自分の孤独を噛みしめる事になった

今は違う。
今はちょっとネットを当たれば、逃げ込める人間関係を見つけ出すことができる。
孤独になる必要はもう無かった。
そうみんなが手に入れることができたのだ。
逃げ込んだ先に本当に存在する自分の居場所。
自分が存在することを肯定してくれる人間関係といつでも繋がっていられる!
みんな孤独に背を向けて、一目散に逃げ込んだ。
人間はもう孤独じゃない!

それから数年が経った。
逃げ込んだ人々は自分が疲れ始めていることに気が付いた。
歯車が狂っていた。
月々6000円ばかりのネット回線料金で買った自分の居場所は間違い無く本物なのに、本物の人間が居る、本物の、フィクションではない、紛い物ではないものの筈なのに。
でも実は本物であるかどうかには何の意味も無かった。
代替品で紛い物の偽物であるかどうかは、それが本当に存在するかどうかと何の関わりもなかった。
誰かに認められた自分は紛い物の自分だった。誰にも認められない自分はなぜかまだそこに居た。
ほんとうに存在する何かの代わりでしかない自分の居場所に居た。
不幸な人間は常に故郷から旅立とうとする。

フィクションは旅人に、自分が偽物であると認める事のできる人間に孤独と自分に向き合わせる。
そうでなければ永遠にさまよい続けるしかない。

可能性とその証明ついて

「できる」と思うならそれを証明しないといけない。
砂の城を作り上げてからぶっ壊したのと最初から何もしないのが同じなんだと認めたら、何もかも意味が無くなってしまう。
可能性とその証明は違う。
意味の無い苦しみに突っ込んでいかないといけない。
誰も何も保証しない。