孤独と承認ゲームについて


昔は逃げる場所が無かった。
家、学校、街、家、学校、家、学校、街、家、学校……
だから私たちは自分の中深くに逃げ込んだ。
もしそのとき他に逃げ込める「人間関係」があったら、私たちはそこに入り浸ったに違いない。
例えば大人の世界でも認められる素晴らしい才能だとか、夕暮れの廃屋での密会だとか、頑張らなくていいけどやたら居心地の良い部活動だとか、屋上の隠れ家と秘密の仲間だとか、異世界への扉だとか、誰も知らない秘密の関係だとか……そんな物は現実世界には一つも無かった、あったとしてもそれは人間の手脂にまみれた醜い姿を晒していた。
フィクションの中にしかなかった。
小説、漫画、ゲーム、アニメ……それは孤独な遊びだった。
どう見てもただの代替物で紛い物の偽物だった。
それは私たちの中でだけ本物だった。
目が覚めるといつも自分の孤独を噛みしめる事になった

今は違う。
今はちょっとネットを当たれば、逃げ込める人間関係を見つけ出すことができる。
孤独になる必要はもう無かった。
そうみんなが手に入れることができたのだ。
逃げ込んだ先に本当に存在する自分の居場所。
自分が存在することを肯定してくれる人間関係といつでも繋がっていられる!
みんな孤独に背を向けて、一目散に逃げ込んだ。
人間はもう孤独じゃない!

それから数年が経った。
逃げ込んだ人々は自分が疲れ始めていることに気が付いた。
歯車が狂っていた。
月々6000円ばかりのネット回線料金で買った自分の居場所は間違い無く本物なのに、本物の人間が居る、本物の、フィクションではない、紛い物ではないものの筈なのに。
でも実は本物であるかどうかには何の意味も無かった。
代替品で紛い物の偽物であるかどうかは、それが本当に存在するかどうかと何の関わりもなかった。
誰かに認められた自分は紛い物の自分だった。誰にも認められない自分はなぜかまだそこに居た。
ほんとうに存在する何かの代わりでしかない自分の居場所に居た。
不幸な人間は常に故郷から旅立とうとする。

フィクションは旅人に、自分が偽物であると認める事のできる人間に孤独と自分に向き合わせる。
そうでなければ永遠にさまよい続けるしかない。