ブロガーにアイデンティティーなんていらない。早く死ねばいいのに。

最近の若者は本当にいたか、とカントは言った


長いよ。

まあそれはともかく。


 よく考えると、ミクシーじゃなくても「ブロガー」っていうのは全然「匿名の発信者」じゃないんですよね。
ブロガーの発言っていうのは、それだけで在るんじゃなくて、そいつの過去の発言を読者が自由に参照することができる。そこには「作家性」というものがあって、その時点で既に情報の独立性というやつは失われている。
 現象学的に言えば、あらゆる先入観、思い込み、前提を廃しない限り本質というのは決して見えない物なのだけど、分りやすいので言えば「文学」はイデオロギーを脱した後の時代によってしか評価が決して定まらない。というのがある。
 これでもわかるだろうけど、「匿名」っていうものは一つの理想ですらあって、それは早く、情報に正しい、評価を下す為の近道なのです。


 インターネットが目指すことは権威の解体といわれます。(「ウェブ進化論」によると?)
つまりこれは理想的なネット上での物理的平等によって権威から解放された目でモノを評価し直すということなのでしょう。しかしインターネットが「権威」を再構成する方法はこれまでのような方法であってはいけません。それは無意識または下意識下で行なわれるべきで、それは例えばグーグルの機械的な情報の評価方法のようなものなのでしょう。少なくともアルファブロガーが取り上げた話が話題になるというような物ではない。


 ブログがしているのは作家性という権威を作り上げることで、そこに淘汰が働くとはいえ、淘汰の勝者が常に正しいなんていう迷妄が現実的でない限り、それは理想の状態ではありません。前にも言ったけれど「恐竜は絶滅した」のです。いやむしろ「恐竜は必ず絶滅する」といった方が良い。
 だから「作家」本体には淘汰がかかったとしても、「作家性」なんていうものは、理想にとってじゃまなだけだというわけ。もっと細かい単位での混沌、できれば情報そのもの単位での混沌じゃないとネットの意味がない。理想は「2ちゃんねる」のような、同じ奴がつづけて言ってるのか違う奴が言ってるのかも分らないような状況だろう。
 私が思うのはブログはその混沌を「エントリー」単位で回すべきなんじゃないかということです。一言で成立する掲示板とはその大きさが違うというだけの、同じ事が出来ないだろうか。そこにブログとこれまでのホームページとの違いを見出せないだろうかと。
 ブロガーは大体毎日おなじ思想に基づいて、同じ口調でしゃべくりするものだけど、ブログが「エントリー」というまとまりごとに分けられ別々にリンクが貼れるという意味を見直したらどうだろう。(たいていの読み手は過去記事を見たりなどしないものだ。)



なんだか支離滅裂気味になりましたが。
まあそういうわけだから、ブロガーはまじめにブログ書いてないで、時々変なこと言って大切な読み手のブロガーへの信頼という奴を失っちゃえばいいんじゃないかしら。w