うんこ

よっぽどのぼんくらなひとでない限り、分かっているとは思うが、
今年は特にいじめによる自殺が多いなんて事は、
十中八九ありえない。


 単にマスコミが騒いでるだけなのと、秋はいつも自殺は多いのと、文科省に手紙送るやつが多いという部分が大きいと思う。
そう思いつつ、いじめだの自殺だののエントリを連続してあげるのも間抜けで馬鹿らしいのだけれど、とりあえずはこのエントリーもその間抜けな続きという事になるだろうか。


 さて私は実は価値相対主義にも、ニーチェ的な(読んだ事ないけど)個人の価値創造については懐疑的な意見をもっている。前のエントリと意見が全然違うではないかと怒られるかも知れないが、あれは限定的な条件のもとでの意見であるという言い訳をさせてもらおうと思う。たとえ私の気持ちがどうであろうと、いじめに対して個人主義的なやり方で対処してきた人の生き方の方が(日本人的な?)あいまいな共同意識に拠るやりかたをしてきた人よりも優れているなんて言う判断には個人的な感情移入以上の根拠はないのである。
 日本人は集団主義でべつによい。単に文化の違いである個人主義をわざわざ真似ようとする必要はない。
 たとえるなら、日本人は群生する植物であるべきで、動物になる必要なない。植物の印象はもしかしたら少し悪いかもしれないが、しかし動物の生与奪権をことごとく握っているのは植物の方である。ちょっと二酸化炭素が増えたくらいで大騒ぎしている人間を見ればいい。


 個人主義といえばキリスト教はかなり個人主義的だ(またぎき)。どうもキリスト教はもっと大きな共同体と繋がるために、家族だとか兄弟とかのローカルな結びつきを断ち切らないといけないという考え方があるらしい。そのために人間は神の前にただ一人でいるという意味で孤立してしまうようだ。別にこれは悪い意味ではない。ニーチェ(読んだ事な、、)が教会に反発していたとしても、個人の超人が価値を創造しなければいけないという考え、つまり何もない宇宙に人間が一人ぼっちというような世界観、というのは、要するに教会が作ってきた神と人間とその他を廃した世界観から「神」だけすっぽり抜けおとして後は全部そのまんまにした状態なのではないか。つまり「神」は否定したけれど、その実「キリスト教」というものにずっぽりはまったままの考えなのではないかと思う。
 べつにキリスト教は盛んでもなんでもないだろうが、キリスト教圏の価値観というものはどんなにかけ離れて見えても、片足はそれに浸かっているようだ。だから私は近代的な価値観というやつが日本でその正当性を主張されて広まるのを見ると文化侵略されているような居心地の悪い気分になるのである。
 価値創造を個人の単位でする必要なんて何処にもない。別に一人一人が命の意味について考える必要なんてないのである。なんとなく分かっているとか、それはそういうもんだと決め付けているのでもべつに悪くはない。別のいい方をすれば、個人で理解していなくても集団でなんとなく分かっていれば問題ない。いわゆる集団知というやつである。そしてそういう人達一人一人の知性とか品位とかが個人主義者に比べて低いなんていう事は断じてない。単にそれはそういう生き方(文化)なのだと思う。だから、個人主義者的な生き方をする人が集団知によって生きる人の文化的な部分をけなすのは、単に昔いじめられて根性がひん曲がったせいで他文化をゆがんだ見方で見ているのだと考えても、差し支えは別にない。
 しかし、集団的な生き方をする人に、今現在問題がないかというとそういうわけでもないようである。どうも現代日本で集団的な生き方をする人には、必ず自己矛盾が生じるようになっているようなのだ。つまり言っていることとやっている事の乖離が激しくなっている。
 言動が矛盾するというのは、傍から見たらきわめて不誠実に見える。例えば大人を逐一見ている子どもなどにとっては特にそう見えるかもしれない。
 例えば、命が大切だのなんだのといいながら戦争で人が死んだニュースよりも好きな野球チームが負けたニュースを大騒ぎして悲しむだとか(これはまだいい)、戦争は良くないと言いながら良く怒って暴力をふるうだとか。(あるいは戦争は良くないと怒って暴力を振るうだとか?)
 何故こんな矛盾が生じるのか、私にはよくわからないが、何かマスコミ的な社会のしくみ自体が、あるいは流布されて集団が共有する事が多くなった「民主主義」や「自由」「平等」等の価値観自体が内部矛盾を引き起こす原因になっているのかもしれない。
 集団知というのはそもそも長い時間をかけて淘汰され普遍性を持ち、現実に合っているからこそより良いのである。マスコミ的なやり方に集団知が打撃を受けたのは間違いない。マスコミは国単位の大きな一つの集団を作るからそれじゃファシズムになってしまう。それではローカルな面で問題が出てくるのは当然だし、ファシズムの危険性は周知のとうりである。(価値を共有する集団というのはそれこそ学校一クラスくらいがいいなあというのは私の意見)


 あまりに集団が大きくなりすぎているから。あるいは「価値」が現実に合っていないからか、今なんとなく共同意識を働かして生きていく人の行動は矛盾する事が多い。だからといって自分でその中途半端さ、不誠実さを是正しようとするならば集団からとびださなけれはいけないというジレンマがある。
 あえて個人として価値を再創造する必要はないが、その矛盾を知る事が出来る知性がある人はある程度「恥」のようなものを持って自己矛盾を補完すべきだろう。それが人や「子どもたち」に対しての誠実さだと思う。



そういえばこんなエントリーもありました。
平和主義者と自称するだけでは不十分であること。 - 卓上洗濯機


 つーか、全然いじめと話が関係なくなっていますがまあ広義に関係があるというか、なんと言うか。
 なんだか分かったようなこといってますが、筆者分かってるのかどうなのか、それこそ木を見て森を知った風な口きいてる様かもしれません。誠実がどうとか言われても誰だって、はあ、って感じでしょうし。
 ただまあ「集団の感情に従う事が個人の行動に矛盾を起こす。」ってことは普通に色んなところのブログでおいしいネタ問題にされてる事とも被るんじゃないかなあという気がします。別に例をあげたりしませんが。
 さて要点は、私が問題にするのが実はその問題自体に関してではなく、その問題に批判を浴びせるブロガ―の姿勢のほうだという事です。(もしその問題自体に私が感情を持っているように見えたらそれはわざとです。)あ、やっぱりちゃんと例を挙げた方がいいでしょうか。とりあえずありていに言っておくと、「愚衆」だとかマスコミなどにながされやすい一般人を(まるきり社会主義者みたいに)批判する場合において簡単に「自己意思をしっかり持って、周りにながされず自分の価値観で物事を判断すべき。」だなんていえてしまう知的中流のことなのです。
 大体こういう人たちはWEB2.0の話のときは、デモクラシーだなんだとか思って諸手で賛成してたりするので困り者なのです。あれだって集団知の話だったりするのに「愚衆」を簡単に批判できちゃうのはやっぱり頭がいっちゃってる、いやそんな言い方はよろしくないので言い換えると、自分が何考えてるのか実のところちっとも把握できていない。
 まあそうでない人も多いでしょう、実はちっとも調べていないのでさっぱりだったりするんですが(笑)実体のない?批判物にたいしての批判を続けます。
 そもそもブログをもって批判だの批評だの出来る思想だの価値観を持って、しかも概念論にたけた人というのは大体個人主義者だという事です。つまり必要の問題です。じつは頭がいいから集団にながされて動くのを止めたのではなく、集団に入れないからあるいはどっちでもいいですが個人主義的なのが好きだから、概念論で論理武装し思想でよろいを作る必要が出来る。そうしないとやっていけないから。たいてい皆逆に思うんですけどね。「あの人は頭がいいから、思想だとかを持っていて他の人とは一風違ったことをいったりしたりするんだろうな。」子どもなら即いじめの対象ですが。
 なんだか言い過ぎたかもしれません。しかし実のところ個人的にはその個人主義の知的中流が憎いなんてちっとも思っていないんですが。(実はたいていの事についてそうだったりするのに、時々ブログで感情を表に出したりするときのは実はオフのことの八つ当たりだったりする事は秘密。おい)
ただ「集団」について語るだけのことが出来る人がたいてい「集団」について憎悪を持っているかもしれないとしたら、
…話半分に聞くのが一番でしょうね。