日本においてはマイノリティであることは罪である

「罪だ」と誰にも(面と向かって)言明されないかもしれないが、罪だ。
少数者であることは罪だ。内容がどうこうではなく周りと協調できない個性がある事自体が罪だ。
その証拠に「罰」が与えられる。
罪があれば罰があるだけでなく、罰があるからこそ罪として機能する帰納的な罪は一般的にあり得る。
例えば近親相姦(罰:遺伝子障害)とか禁忌のたぐいだ。
ここでは罰がどうしようもなく確立されているために罪が肯定される。

日本以外でも原理的にはそうかもしれない。でも日本以外についてはあんまり詳しくないのでこういう言い方になる。まあ釣りかもしれない。

罪じゃない、マイノリティである事は悪いことでは無いと主張する向きもあるだろうし、それは正しいとも思うしそういう世界だといいよねとも思うけど、
「悪く無い」って事が多くの人に共有されたとしてもマイノリティである事に対する罪はなくならない。

正しい事でも一人でやれば罪である。もれなく孤独という罰が与えられる。
不正でも大勢で行えば罪ではない。
罪自体は言明されずむしろ否定されたとしても、口でそう言いつつ結局「罰」自体は行動で肯定されるのでどうしようもない。
でもそれはそういう物だから幻滅してはいけない。

応援団を応援することは正しいか

賛成派の意見

応援は人間の創造的活動であり、工夫を凝らし、日夜の厳しい練習と努力によってその技術を高めます。 チアリーディングは独立したスポーツ競技と認められ難易度の高いコンタクトスポーツですし、 ブラスバンドに高度な音楽技術が望まれることは言うまでもありません。 そのような活動で努力する人たちを応援することは、もちろん正しいことです。 これを否定する反対派の見識を疑います。

反対派の意見

応援団は応援の専門家です。 スポーツ競技などのイベントを盛り上げるメンタルサポートのリーダーであることを要求されます。 チアリーダーとはまさにそのリーダーシップを指すのです。 応援団は率先して元気を振りまく存在であらねばならず、 応援されなければ元気が出ないような応援団は応援のリーダーとして失格です。 応援団を応援する行為は、まさにこの「あなたがたは応援が必要だ」という侮蔑に相当するのです。 応援が必要な応援団は既に自己矛盾に陥っています。

賛成派の反論

そのような説は人間性の本質に根ざさない、空虚な論理遊びであると厳しく糾弾されなければなりません。 料理のプロが料理を作ってもらう喜びを味わってはいけないというのでしょうか。 愛を説く牧師さんや神父さんが周囲から愛されてはいけないというのでしょうか。 繰り返しますがチアリーディングはスポーツです。 アクロバットを含む体操競技です。 スポーツ選手を応援することのどこがいけないのか、理解に苦しみます。

反対派の反論

賛成派は論点のすり替えを行っています。 このディベートのテーマは「応援団を応援すること」の是非であり、スポーツ競技としてのチアリーディングに限定されるものではありません。 例えば精神的理解や活動資金のためのバザーに協力するといった漠然とした「応援」の議論でもありません。 広い意味ならどのような正当な活動であっても、他人の努力は妨害するより応援する方が良いに決まっており、議論はトリビアルになってしまいます。 拡大解釈や特殊な限定的解釈を行わず「応援団」という言葉が通常意味するところの「応援」活動を問題にしてください。 応援団を精神的・経済的などの広い意味で肯定・支援することはもちろん是です。 見事なチアリーディングの曲芸に対して、どよめきや拍手が起こるのももちろん自然でしょう。 しかし一般論として、応援活動中の応援団に向かって「フレー、フレー、がんばれがんばれ応援団! 元気を出せ出せ!」などと声援を送ることは、本質的に極めて失礼な行為です。手の込んだ皮肉としか言いようがありません。賛成派こそ、当事者の身になって、人間の心をよく考えるべきではないでしょうか。

賛成派の再反論

一見正当なようですが、その意見は間違っています。 応援団といっても人間であり、無限の元気を持っているわけではありません。 特に応援対象のチームが劣勢のとき、エネルギーを維持し続けることは大変なことです。 しかも応援という活動の性質上、その苦しみを表に出すことは許されないのです。 誰よりも苦しみながら、誰よりも明るく振る舞うことを求められるのです。 それこそが「当事者の心」です。 そうした立場にある応援団を励まし応援することは、なるほど言葉の上では自己矛盾かもしれませんが、 人間の現実として極めて正当で共感可能な行動です。 しかも応援という行為の最終目標は一方的に観衆をリードすることではなく、 観衆と一体となってイベントを盛り上げ、究極的に人間の幸福に寄与することにあります。 そこにあるのは、応援し、応援される相互関係、励まし、励まされ、支え、支えられる友愛と連帯であり、決して一方的な主従関係ではありません。 あるべきでもありません。 応援団が声援を受けることのどこが問題なのでしょうか。 応援団が何をしても拍手などせず、存在を無視し続けろとでもいうのでしょうか。 応援団が見事なことをすればそれを応援したくなるのは自然です。 単純で動かしがたい人間の真実です。 本ディベートのテーマは「皮肉にも取れる応援をすること」ではなく普通の意味で「応援をすること」です。 様態によっては皮肉にもなりうるから、などというのは理由になっていません。

反対派の再反論

賛成派はまた論点のすり替えを行っています。 「チームが特に劣勢のとき」「応援団が見事なことをしたとき」などというのは、限定的な事象であり、 その限定条件を付ければ応援団を応援することが自然に見える可能性を含む瞬間が存在する、という指摘にすぎません。 そのような瞬間が存在するということは、わたしたちも当初から認めています。 しかしそのような瞬間が仮に全体の時間の中に数パーセントあるからといって、 一般論として応援団を応援することが正しいということにはなりません。 応援団は本質においては、みずからの気持ちを盛り立て、観客や応援対象チームのムードを高める主導的役割を果たすことを求められています。 確かにそこには苦しみや困難もあるでしょうが、その困難こそが応援団がみずから立ち向かう挑戦であり、 存在意義なのです。 外部から盛り立ててもらわなければその核心の挑戦に立ち向かう勇気がない、というのであれば、 応援団は存在意義を失っています。 苦境にある応援団を応援してムードを回復させることができる人がそこにいるのなら、 その人の強靭な意志力を直接、劣勢の応援対象チームの応援に向ければ済む話です。 つらい立場でも勇気を失わない応援団に感動したり同情したりすることは結構ですが、それは「応援団が応援を必要としている」「応援団を応援することが正しい」という証明にはなり得ません。応援団として価値を認めたからには、リードをゆだねるべきであり、応援団を応援する、つまり応援団の応援精神をリードする、などというのは局面の混乱でしかありません。

賛成派の補足意見

観客・応援団・チームの気持ちが特に一体化するのは時間にすれば数パーセントかもしれませんが、美しさはそこにあり、時間の割合だけで軽視はできませんし、応援は創造的な行為であり、「フレーフレー」と声援を送るばかりではありません。応援団に声援を送るのはかえって迷惑かもしれませんが、状況に応じた適切な応援方法で応援団を応援することは、少しも間違っていません。

アニメと現実をごっちゃにする人たち。その3



続き。

けいおん!!」のキャラクターの進路選択に対する個々人の反応というのは、それぞれの作品の受容の仕方に依存している。
もちろん現実の人間に対して、「その進路選択は間違いだ」なんて偉そうに言える場面なんてほとんど無いが・・・。
はなしがとっちらかってしまった。

  • さわちゃんちょっとリベラルすぎるんじゃないか



について。
正直さわちゃんは何考えてるのか分からんし。
進路について何も言わないで調査票を受け取ったことについては、はっきり言ってそれについての前置きが描かれていない。複線もない。脳内補完しろといわれても困るだろふざけんな。さわちゃんを脳内補完する暇なんてねえ。
一方、漫画原作。
まあ似たようなものではあるモノの・・・「やりたいことがないからとりあえず大学行く人も多い・・・byさわこ」というセリフはまあその通りでリアルな現実を反映している。正直高校の進路選択の時点で将来の職業を考えているやつがどれだけいるっていうのだ。友達に合わせるんじゃなくて自分に合った選択肢を選ぶべきだったとか言う奴は、義務教育の建前を真に受けすぎだ。一方で子供の教育に悪いっていうなら全くその通りだと思うけどね・・・・・・。

  • メンバーはどこまで深く考えて進路を選んだのか、という点で疑問が残る



脳内補完する側としては、「メンバーはみんな自分の成績や希望に合った進路を選ぶ事も考えたがあえてみんなと同じ進路を選ぶ事をよしとしたか、偶然その大学に自分の興味のある学部があった」という感じ。


しない側としては「ていうか一日で決めてんじゃん」
・・・・・・といわれたらなんと反論すれば良いんでしょうか?擁護派は・・・・・・。


はあ、しかし、一方でこういう「建前」にそぐわないという批判が起こるという事はもう一つの側面が有る。
というか本当に重大な問題は、その進路が良いとか悪いとか、よく考えたかとかじゃなく、
問題はあまりに彼女らの進路選択の方法がリアル過ぎる。
という事でしかない。


みんな仲良く同じ大学。
だなんて、有りそう過ぎて困る。
むしろ、それぞれ夢に向かって離ればなれになりました!
なんていう方がフィクションですよねー。ありえねえ・・・・・・
そんな事あり得ない。げんじつ!!には・・・・・・みんなたいした夢なんか持ってないし将来のビジョンもないし離ればなれになるのは離ればなれになっても良いからだし・・・・・・


ということを考えるとですね。
けいおんの進路の問題は、成長とかを描くのを後回しにしてリアリズムを優先しちゃった事にあると思う。
一方、途中の回で成長っぽいモノも書かれているから混乱するわけだが、でも正直「成長神話」でしょ。
成長は「けいおん!!」の要素の一つだけどテーマじゃないじゃん。
最終回に成長を書くのは容易だけども、けいおんの最終回で成長を描かれたら正直それはもううんざりだ。と思うのは僕だけでしょうか?
ああ、でもそういうのはちょっと話が違うんだろうなとも考える。そう言うのは作品と関係ない僕の経験の問題だしね。
でもさ、結局作者が何を書きたかったかというのははっきりしてて「リアルな女子高生の日常」って言うんだから文句付けられるところ無いと思うよ。誰にも。


この結末はどうしようもなくリアルだ。と思う。フィクションでこういう話になるとしたら、それなりの下地を描いた上で説得力を持たす必要がある、というか持たすことが慣例化していた気がする。
この進路選択は僕らの妄想を打ち砕いたんだと思う。
この終わり方が、現実からの逃避だなんて言うのは全然見当外れだ、むしろコレは現実的すぎる。
現実的すぎるからこそ、「こうあるべきだ」「こうあって欲しい」という先入観との違和感が発生してる。
そう思う。


@@

  • 結果、最終回別れを迎えるのは中野梓だけで、何か釈然としない。



について。
僕はこの最終回はすごいきれいにまとまった、と思ったよ。
なぜかって、だってここで、ピックアップされているのは、中野梓とそのほかのメンバーとの別れ。
「4:1」の別れだ。
そして「けいおん!!」は途中から軽音部に加わった中野梓が軽音部と別れるまでの話だ。
だとするならば、個々は「4:1」の物語でないといけなかったのだ。
「1:1:1:1:1」の別れの物語では無く。
そして「軽音部と中野梓との別れ」
は同時に「軽音部と視聴者の別れ」を象徴している。
これ以上きれいな終わり方があるのなら教えて欲しい。


結局コレは僕たちの「けいおん」の見方はどうだったのか、という話だ。
その物語そのものではなく、存在の描写、細かいディディールに魅せられていたのならば、
誰だって「物語の終わり」が自分と「けいおん部」との別れだと感じるだろう?


だから僕はこの最終回はどうしようもなく正しいんだと断言する。


@@


というわけで、読み苦しくて申し訳ないが、「けいおん!!」の最終回について思ったことを書き綴ってみた。
酔っ払ってるから読み苦しいと思います。申し訳ない。
まー番外編はねー・・・・・・。
映画はねー・・・・・・見ないとわかんないけどね、・・・まあ嬉しいですけどね!

アニメと現実をごっちゃにする人たち。その2

(その1は割とどうでも良い)


けいおん!!の終わり方における違和感。
もういいや箇条書きで!!

  1. 澪が公立の推薦蹴ってムギと同じ大学に行く。他の2人も志望大学をムギと同じ大学ということで志望大学を選ぶ。
  2. それについてさわ子黙認。
  3. 結果、最終回別れを迎えるのは中野梓だけで、何か釈然としない。


以上。

3はひとまず置いておいて
 まず、1は「高校生の進路選択」という点に置いて将来のことを考えると最良の選択とは言えない。また、2でそれをあっさり(それまで何度も進路希望調査突き返してたのに)受け取った先生の判断も最良の選択とは言えないし(先生が生徒に「そういう風な進学の選び方をしたら将来後悔する云々」的なテンプレートで説得したという場面を脳内補完しない限り)教師としてそれで良いのかよ、という感じはぬぐえない。


 でも、一方でこういうことが実際には起こらないか、というとそんな事は全然無い。友達だとか恋人と同じ進路に行きたいなんていう話はありふれている。
 で、そのまた一方、フィクションでこういうことが起こらないかというと、それも全くそんな事はない。現実以上にありふれている。(行こうとしたけど片方落ちる見たいな話の方が多いけどね)
@@@
じゃあなんで「けいおん!!」の場合は違和感があるんだろうか?
面倒なのでまた箇条書きで

  1. さわちゃんちょっとリベラルすぎるんじゃないか
  2. メンバーはどこまで深く考えて進路を選んだのか、という点で疑問が残る

要するにキャラクターにちょっと違和感がある。
1については、さわちゃんは何時もは馬鹿なことをしているけど本質的には生徒を暖かく見守っている保護者的な立場のキャラだった。特に後半はそういう演出が多かった性もあって、進路は生徒を導く立場として一番重要なとこなのにそんな簡単に認めて良いのかよという違和感は大きい。
2は、あまり深く考えずに「一緒がいい」ということだけで進路を選んだのだったらちょっとキャラとして薄っぺらい。「けいおんにはもっと深いキャラクター性があった筈なのに・・・」というのが違和感の正体じゃないか。
一方で「自分に有益そうな(自分に合った学力のところとか?)進路」と天秤にかけた上で、それでも「みんなと一緒が良い」から進路を選んだのだと考えれば、キャラの軽薄さは解消されるものの、今度は「そんなに深い考えするキャラだっけか」という違和感・・・・・・。

けいおん!!」はキャラもののアニメだから、この点に問題があると大きな瑕疵じゃないだろか。
なまじ描写がすばらしいせいもあるのか、こういうのはちょっと目立つよね!!


続く

アニメと現実をごっちゃにする人たち。その1

大方の予想通り半分釣りタイトル、ですが半分本気です。

というのも、以下のトゥギャザーとそれを元に書かれた記事
「アニオタ保守本流「けいおん!全員女子大進学問題をdisってみた」
けいおん!という病。”全員女子大進学問題”を考える。

をたたき台にして話を進めようかと思ったのですが、あんまりたたき台としては多少お粗末すぎるような気がしてきたのです。
タイトルからして釣りっぽい記事ですが、問題点はいくつでも上げられます。

  ―「けいおん!!」の最終回に違和感を感じる。これは登場人物の明確な離別が描かれていないからではないか・・・・・・
 ここまではいいと思います。ですがこの書き手にはその問題提起につづいて、分析を与える力自体は無かったと言うほか有りません。
それ以下の文章は正直決めつけと思い込みによる批判しか書かれていません。


曰く「離別の先には成長が待っている(から青春作品には離別が描かれる)」

曰く「現実は辛く、現実は厳しく、現実は理不尽である。」

曰く「かつて想像力とは、現実に対抗することを前提に作られていた。」


挙げ句の果てには

「同じ女子大に進学しなければ友情が壊れてしまうという、逆説的に彼女達4人の人間関係の薄っぺらさも描写することになってしまった。」

とかいう有りもしない描写をねつ造するに至ります。(本人は同じ女子大に進学するという展開自体がその描写だと主張するかもしれないが、それは明らかに決めつけが過ぎるだろうと。)

これらの主張は俺としてはうまく反論ができません。なぜならこれらの主張の根拠が薄弱だからです。

 さらに話を社会現象だの日本経済の未来だの日本現代社会の闇だのに持ってこられても、こちらとしては困ります。だってそれ全部あなたの妄想じゃん。
 まあとはいっても後半部分は「けいおん!!」の批判と言うよりも「けいおん!!」の批判を手がかりにした自己主張だと考えられる訳で、社会についての考えを自由に主張するのは、表現の自由の権利の認められた民主国家においてはもうどんどんやってもらった方が議論も活発になるし、ひいては世の中をよくしていく事につながるから全然良いことだし、それを主張する事自体には俺は何も文句はありません。
 でも、正直「けいおん!!」の批判としてはちょっとピンとこないわけです。
だって「けいおん!!」に日本が諸外国に打ち勝つ事を啓蒙する義務があるかと考えるとそれはもう、まったああああああああああああああああく無い。としか言いようが無いですから。
 まあ単純にアニメ1作品の話の展開から日本の未来にまで話を広げるのにはあまりにもデータが足りない、というだけの事でしょう。

 とはいっても、この記事に所々妙に説得力がある事も事実です。
 それは部分部分で
 「登場人物のほとんどが一緒に進学するのでは最終回としては締まりが悪い」
という誰もがうっすら感じる違和感だとか、
 

秋山澪の可能性を潰してしまうその選択を、本当の友達であるなら許してはなら無い筈だ」

  
 という、現代義務教育を受けてればどうしても引っかからざるを得ない部分をすくい取っているからでしょう。
 確かこれらのいくつかの違和感は作品のテーマやまた作品を受容する視聴者側の態度を浮き彫りにする点で大変重要なポイントであるのは間違い無いかと思います。
 

さて、一応の締めとしてaniotahosyuへの反論をまとめてみるとこうなります。
「あなたはアニメと現実をごっちゃにしていると思います。また、記事に書かれた社会批判が本気ならば、あなたが批判すべきは社会であってサブカルチャーでないでしょう。
けいおんを「生き甲斐」にしている人間がぬるま湯につかっているというのは、完全にあなたの思い込みで実際はけいおんのために今日の仕事をがんばろう、来週まで乗り切ろう!という厳しい現実があるとは思いませんか? けいおんが大好きな人間が現実を見ていないなんていう論評は全うに生活している視聴者としてはひどい言いがかりも甚だしい。私たちは現実に生活し、汗をかき、疲れ切った心を癒す、それが偶然「深夜アニメ」である場合もあります。誰かが萌えアニメモルヒネだというようなことを言っていましたが、戦場で兵士が使うモルヒネは恐怖のあまり動けなくなって殺され無いように、戦い続けるためのモノで有る場合もあります。
あと、誰がどう見ても明らかに後半の中野梓は主人公ですから!!!!

(付属品とか流石にねーわ、何見てたんだ一体・・・・・・)

続く。