死ぬくらいなら殺すべきなのだ。


 戦場だろうと学校だろうと、殺されそうになったら相手を殺すべきなのだ。それは絶対に、絶対に間違っていないと僕は(あえて)断言する。狭い世界しか持っていない人にとっては特に、それはあらゆる意味で正しい。なぜなら個人の価値とは実際の行動の後についてくるものだからだ。
 つまり全ての行動はその人間の中で、「正しさ」を後付けされる。(そんなの当たり前か。)


 しかしとりあえず、現実の進行形での価値判断というのはもっと単純なところにある。
 殺されるという事は完全に屈辱なのである。上から見下ろされる、そういう屈辱。
ある人は、平等主義を笑うだろうが。
「人間の命は平等じゃない。そんなのは現実を見ない馬鹿げた理想主義だ。」
「確かにそうだ。
しかしそれが全てではない。
誰一人「神」になれない以上、人間は何時でも絶望的に平等だ。
見方の問題ではなく、それはそうなのだ。」


 私たちは平等である、誰も一つの視点しかもてないという点において。でもそれは、かなり重大な点だとも思うのだ。それを支点にしたら宇宙を持ち上げる事も出来るといったら分かっていただけるだろうか。
 しかし、死は絶対なのだ。自分という存在の死について、誰もそれを語る事が出来ないし説明する事も出来ない。私は自然科学的な意味での死の話をしているわけではない。これは他人の死ではない、実在的な死のはなしだ。だから死は一つの神秘になりえる。(告白するとここら辺は実はかなり付け焼刃だったりする。)


 人に、殺される、という事。
それは自分の持つ「神秘」を相手の手中に握らせるという事を意味する。
絶対に自分のつかむ事の出来ない高さのものが誰かに、擬似的であれ「人間のレベル」まで引きずりおろされる事を意味する。そしてそれは同時に自分を深宇宙の深さまで貶める事を意味する。
「そんなのは錯覚だ。」
 確かにこれは錯覚かもしれない、しかし僕達は知っているし、それを自明にするべきなのだ。なぜなら物事を決めるのは行動だけだから。
 僕たちが知っているのは、誰もが同じ地平にいるという事だし。相手を引き摺り下ろすことができるっていう事だ。


 そしてもう一つ大切な事は、
「中途半端がいちばん悪い(ロマンロラン?)」って事。
そして中途半端な絶望なんていうのは本当にもう最悪。
だから「自殺はいいけど殺人は駄目。」だとか「いじめはいいけど親に迷惑かけたくない。」とかいう「何かに意味がないのはわかったけど、他のは考えないで置こう。」的な概念が一番駄目なのだ。
どちらの方向だとしてもに行くには早く行き着かないといけない。
「目的地は問題じゃない、大事なのはスピードだ(「サーチエンジン・システムクラッシュ」?宮沢章夫?)」
中途半端は害悪だ。だってそれでは何一つ判断できない、というかそれは単に迷ったらまっすぐ歩くてきな問題だと思うが。