はてななんてどうでもいいです。

私ははてななんてどうでもいいんです。
はてなを選んだのなんて何となくですし、キーワードも人力検索も全然使わないし、ただテキストが書ければそれでいい。
そして、HTMLタグとか使わなくても文章が適当に整形されて、過去記事なんかへのリンクとかも自分でしなくても勝手に出来て、画像の配置とかも勝手にやってくれるならそれでいいんです。
つまりは、「ブログ」であれば何処でもいいんです。


実はこういう無党派層の浮遊票ブロガーが一番多いんじゃないでしょうか。(逃げ)

理解できないものを批判してはいけません。

「理解してはいけないものを批判してはいけません。」
という命題を作りました
が証明する気はありません。だって「いけません。」なんてあいまいすぎるから。
これがだれのどのような条件下でなに反するのが「禁止」なのかを説明してから証明するなんて、
考えただけでぞっとしました。
長いしその割におもしろくないし…。


でも私が言いたいのはそこじゃないので、助かります。
と言うのもこれは「戦争をしてはいけない。」とかと違って、だいぶ現実追認的な命題だからです。
だって「理解」ですよ「理解」。
「理解」っていうなら、自分なりに理解すればいいんだから簡単なんです。
いや誤解だって理解のうちですから。

現実主義者は誤解してる。

現実主義者は、十九世紀の現実主義小説みたいなのが現実だと思って、もっと前の神話とかグリム童話とかファンタジーとかシェイクスピアとかは現実的じゃない、なんて思ってるみたいだけどそれは誤解です。

現実ってもっと幅の広いものじゃないですか?


というわけで本を紹介。

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

追記;この本の巻末に、普通どの本にもある例の
「本書の無断複写・複製・転載を禁じます。」
ていうのがないんですが、…それはもしかして「フリー」ってことですか?
転載してみようかな。

三島由紀夫とポールオースター

この2人が「鍵のかかる部屋」と「鍵のかかった部屋」という名前の作品を書いていることをさっき知りました。

鍵のかかる部屋 (新潮文庫)

鍵のかかる部屋 (新潮文庫)

鍵のかかった部屋

鍵のかかった部屋

「鍵のかかる部屋」は未読です。

なぜ最近の日本の小説は屑なのか

というわけでこういうテーマで文章書こうと企んでみたわけです。
こういう批判的なこと書こうとすると自己批判がモワモワ頭に浮かんできたり、内容がギスギスしたりして疲れて嫌なので最初は肯定的なこと書こうと思うんですが、あくまで批判ですから。結局最後に全否定することに…。


小説が悪くなっていると言う時の、ラノベ批判や「セカチュウ(なんかピカチュウみたい)」の類への批判はたいてい的外れです。
エモーショナルかどうかが文学的にいい小説かどうか関係ないのなら悪い小説かどうかとも関係ありません。
むしろ全然関係ありません。
三島由紀夫潮騒なんかどうでしょう、べたべたな恋愛物ではないですか?
源氏物語なんかもいま読んでも全然エンタメ小説ですし。


ラノベセカチュウはそういうわけで何にも悪くはありません、読者をなかそうとしてくれて結構。萌えさそうとするのも結構です。

読者批判もなんだかおかしい
いったいそのいわゆる「レベルの高い読者」とはなんでしょうかね?
ただ単に読み方の技巧が高い、深読みしたり背後にある作品を知っている、とかいうことなら、
それはだからただ単に技巧の問題でしょう、本質的には変わりません。
五目並べ囲碁ドンジャラと麻雀の違いのようなものです。


最近は違う見方が主流ですが、基本的に読者は快感だから本を読むんです、だから活字中毒*1になったりもします。
ただ単に読者の技巧が上がるのは、それまでの快楽になれて麻痺してしまった麻薬中毒者がもっと強い麻薬を求めるようなもので、もっと刺激の強いものしかいいと思えなくなったからです。
だから技巧が高かろうが結局はハルヒ*2を読んで萌えてる奴と、大江健三郎よんでしびれてるやつは快楽を求める人ということでは基本的に何も変わりません。

感性と言う言葉は要注意です。
エモーショナルに感じるのも感性ならば、普遍的な芸術を感じるのも感性だからです。
一人一人の感性を否定すべきでないし同時に普遍性を否定することもしてはいけないって言うのが妥当な所でしょう。

全ては書く側の責任です。
小説家は読者におもねっているか編集者におもねっているか自分におもねっているじゃないですか。


彼らはようするに
悪く言えば「売れればいい」と思っていて
よく言えば「読者に気に入られればいい」と思っているんです、
自分で言ってるので間違いないでしょう。
「読む人に感動を与える作品を書きたい。」とかなんとか。
だからそれ以上のものは書きたいとも思いません。


自分におもねっている人も同じです。自分の書きたいものを書くだけで、それはそうかもしれないけれどそれではぬるいと思います。


「ペンは剣よりも強い」という言葉があるけれど(ジャーナリストの話じゃないのと言う突っ込みは置いておいて)
「よりも」というのが本当かどうかは考慮の余地があるとは思うけれど
小説家にとってペンは確かに剣だったと思う。
でも今はもう剣なんて捨てたんじゃないかとも思う。

4.5

衝撃の大スクープ! 佐藤亜紀漫画から盗用 か?: 大蟻食の生活と意見
http://anotherorphan.com/2006/06/post_308.html
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20060622#p5
あとたとえ「幻想」だとしても - Sound and Fury.::メルの本棚。


このエントリーはこの一連のあれへのレスポンスとして(遅いですが)書くつもりだったんですけど、揚げ足取るのもなんだなあと思ったもんで。


私はただ
「最近の小説が屑なのは、小説家がみんな、飯が食えれば満足な豚だからだ!それ以外のことは瑣末なことだ。」
と言いたいんです。

*1:椎名誠活字中毒者の味噌蔵」より

*2:ハルヒが萌え小説なのかは読んでないので知らない。

このブログはもう駄目だ。助からない。

最近はメモと殴り書きの塊みたいになってどうしようもないなあと、「ごめんなさい」と言いたいなと、
でもある所でネット上の文章は全てメモだという記述を読んだので少し希望がわきました。
だって生物は7億年前に非生物から生まれたんですから!!(少々意味不明)

ブックマーカーはおもしろいエントリーをブックマークするな。

ブックマーカーはあくまで他人に読ませたい文章をブックマークすべきです。
名前が「ブックマーク」だからってお気に入りのサイトを登録するのは間違っています。
インターネットの唯一の長所は多様性を生み出すことですが、そのようなブックマークはインターネットの多様性を殺してしまうだけです。


そういう意味ではグーグルは間違っていたかもしれません。

淘汰が発展しそれがある程度固定される仮の勝者を作ってしまうくらいなら、淘汰を常に途上のままにおいておかないといけません。
(過去記事「ブロガーは権力を持ってはいけない」

メディアの世代交代が起きていること、つまり既存のメディアが傾いていることの核心は「大規模・大量画一性」が支持されず、技術的にもそのアンチテーゼ「小規模・多様性」が可能になったことにある。

グーグルやソーシャル・ブックマークなどの新しいウェブ技術が「みんなが同じ『みんなが注目しているもの』を注目する」という方向に行くなら、ウェブも同じ運命をたどるだろう。

この新しい世界を栄えさせるためのキーワードは「構造化」ではなく「ぐしゃまら」。多様性の本質は未定義・未整理・未分類を含むこと。隅々まで管理された学校ではなく、土もぶよぶよの原生林。知識を論理的に整理した優等生ではなく、天才のうそっこ歌。誰も作者が信じられないほど、作者がめちゃくちゃにふるまうとき、人はついに作者を見ることをあきらめ、そして、情報は、自立する。検索しにくく、分かりにくく、一貫性に欠け、気まぐれで、ユーザビリティの低いコンテンツ運用を意図的にやる実験が必要だ。各コンテンツは、多数派の好みを考慮した穏和なスタイルではなく、読者を選ぶアグレッシブなスピンを持つべきだ。

そのような実験は、「進んでいる人」からは、時代に逆行した混とんに見えるはずだ。ちょうど、マスメディア社会を信じる人に、インターネットが信頼できない混とんに見えるであろうように。
http://www.fairyland.to.marybell.org/articles/2/21/#d60531Web マイナス0.9への中書き)

ぐしゃまら、て…。