フィクション洋子
全てのテキストはフィクションへ近づいていく。
全ての情報は、生れ落ちた時からだんだんと、フィクショナルになっていく。
例え事務的な書類だろうと、新聞の記事だろうと、飲み屋の伝票だろうと、なんだろうと。
例えば二百年経ったとする。うん、たった今経ったとする。
その書類を、記事を、飲み屋の伝票をその他どんなテキストでも、空想される幻でしかありえないそのテキストが書かれた過去を、現実だと認めることのできる人が死に絶えたとき、テキストはかなりフィクションになる。
でもまあ小説程度のフィクションだ。たいしたことはない。
―ところで、ある人が言うには、漢文を読むときは何も考えず、自分を空にし、文字が語りかけて来るのを待つのだそうだ。―
いや、むしろテキストはフィクションになることを希求している。
あらゆる偏見、先入観、イデオロギーから脱し、まとわりつくあらゆる説明の入った付属ファイルを削除し、本来の自分だけになることを望む。もちろん作家はすぐに死ななければならない。そして忘れ去られなければならない。それからどんどん時代が過ぎ、テキストの生まれた時代は忘れ去られる。その後、テキストは、ゆっくりと砂が崩れるように、そのタイトルから失い始める。その頃には、とっくの昔に、テキストに書かれた言語を使用する人間はどこにもいないのである。
それを追う様に、テキストから言葉の意味が消えていく。それは本当にゆっくりと、まるで海が静かに無くなるときのように。
やがて、テキストは何か絵のようなもの、になる。
誰もいなくなった地上に何かの象形が描かれたよく分らないものが落ちている。
「将来の夢は?」
「エイリアンがやってきてあたしを見つけるまで生き残ることです。」?
異星起源の生命が、テキストを発見して、どんな意味を読み取るか?・・・実はテキストの中身というのは、この、エイリアンが読み取ることのできる言葉だけだった。
そういえばこれは文学のテーマでもあった。
(題名は内容と関係ない)