私が信じたかったこと。

自分自身というもの、物体としての存在を考えた時にすぐ気が付くのは、それが上下左右前後の方向に空間を占め質量を持っているだけでなく時間の方向もある幅を持っているということです。
全てのものがそうであるように、それがなければ何も、或いは一瞬しか、存在できないでしょう。


ある人の過去と未来の関係というものはまるで、その人の右手と左手の間にある関係と同じものを持っている。
それはどちらも実際比べてみれば全然違うもので距離的にも離れているけれど、やはり「自分」であることには違いないのです。
ここでは確かに時間と空間というものを同じものとして捉えることができます。


さてでは私が信じたいものは何かという問いに、私は少し回りくどい回答をしなければなりません。私が信じたいもの、とは空間的な意味だけでなく、時空間的な意味での「私」が信じられるものです。
つまり今現在の瞬間的な自分が信じられるだけでは不十分なのです。


一時的な表層意識が全てを否定してしまうことはもう説明しました。「青が散る」じゃあるまいし、別に妄想に悩まされているわけではありませんが、私は今の状況がかなり幸福であると認識していますし、可能性としてそれがいくらでも悪くなるだろうことは判っています。つまり、今がよければいいという考え方は欺瞞が過ぎると思うわけです。仮想される未来の自分自身にとっては、いつもその未来こそが今です。右手が大丈夫だから他はどうなろうと気にしない、というわけにはいきません。



というわけですから、私たちは予想できるどんな未来においても信じられるものを信じるべきです。というかそうでないなら「自分自身」が本当に信じられているとはいえません。


そうでなくても信じ続けられそうもないと思うようなモノは本当に信じれてはいないものですが。