論理はいつも間違った答えを出す不良品でしかない。


どうも皆さん「論理」とか言われると難しそうな数式のようなものを思い浮かべてしまう癖があるようです。

しかし論理に喩えとしては、
「同じ材料を使えば必ず同じものができる料理。」
の方がより正しいでしょう論理が導く答えというものは前提材料をそろえた最初の時点で既に決定しているものなのです。
ここで数式のように考えてしまうと、義務教育で叩き込まれたものですから、その論理の正しさが設問と回答の間の過程にだけ依存していると勘違いしかねません。
しかし実際はたとえ天才が5秒でといても苦学生が一日かけてといても答えは同じなわけで、答えが依存しているのはそもそも設問自体だというのはということは当たり前の話。問題が違えば答えも違いますから。
また現実で理論武装したりする時に使う論理というのは数学ほど複雑な計算のようなものは必要ありません。原因→結果とひとっとびで単純すぎるのは駄目ですが(インゲン→やせる、みたいなの)「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどやっちゃう必要も無いわけで(蝶が羽ばたくとどこかで嵐が!みたいなの)たいてい三つか四つ飛び石を飛んで周りを固めて置けばいいのです。つまりそんなことはなれれば誰にでもできることで、すごいことでもなんでもない。


論理の正しさを誇示している「論理原理主義者」は片腹痛くてたまりません。途中で計算間違いしないなんていう正しさは小学生じゃないのだから当たり前のことじゃないですか。九九が出来て褒められた時の事が忘れられないのでしょうか。
「でもね、1を2で割って2を掛けたら答えは1ですけど、
一人を半分にしてそれからその半分の人間を二つ持ってきてくっつけても一人にはならないんですよ。」


さて現実世界日常生活において「正しい」答えを導き出すには「正しい」前提を手に入れる必要があります。
そしてそれは絶対に不可能です。
物理とか習った人なら分ると思うんですが、あれって扱うものを理想化しますよね。実験する時でもいつも理想に近い状態にしてからやります。
なぜかというと理想化して前提条件を減らしておかないと、論理が全然組み立てられないからです。
しかし現実では、恐ろしいことに無視できない前提条件が多すぎです。
ちょっとあげると、おなじみの重力質量速度から温度湿度匂い光音粘性。そして大量の(そして多くの場合不明確な)概念。自由だの世界だの愛だの国心人生命自分利己純粋・・・。
多すぎて辟易するこれらのものも無視はできない影響を持っているんですが、こんな様子では流体力学でも応用してディープホワイト*1で計算しても百年たっても埒が明かないのが目に見えています。
そして忘れてはいけない何よりも厄介なことが、私たちにはいくら頑張ったところで全部の条件を捕捉することは不可能だということです。良く見てせいぜい半分でしょうか。
ということはつまりコーヒーをこぼして半分ぐらいにじんで読めなくなった問題を解こうとしている状態ということになります。それならば経験則から「最近答えが1のことが多いから1にしとこう」と考えたほうが幾らかましでしょう。


そういうわけですから「論理」が正しい答えを出すというのは、現実世界日常生活ではありえません。
あなたが正しいと信じているその答えは全て間違いです。



蛇足ですが、「論理原理主義者」というのは私が前提をいじって自分に都合のいい論理的結論というものを作ったりすると大体賛成してくれるわけです。これで何度得したか分りません。



これは否定的過ぎるのでもうちょっと肯定的な話も
科学は素晴らしいものだ。 - 卓上洗濯機