科学は素晴らしいものだ。

イチロー(以下イ)「ねえお父さん科学って一体ほんとのところどういうものなのかなあ。」
ベンジャミン・シーゲル(以下ベ)「どうしてそんな事をいきなり聞くんだい?」
イ「さあ?」
ベ「あまり知られていないけど、科学というものは本質的には文学や芸術と同じものなんだ。科学も芸術も普遍性や本質的なものを求めるものだからね。例えば素晴らしい文学作品は千年のちにも残るだろう?それと同じように「熱力学の第二法則」や「特殊相対性理論」は千年先にも残る。というより人間が滅んでもそれ自体は残るだろう、それは「熱力学の第二法則」が「源氏物語」と同じように普遍性を持っているからだ。しかもモジを読めないと分らない文学などとちがって、科学は何処でも通用する。時間的な普遍性だけではなく、距離的な普遍性も兼ね備えているのが特徴だね。」
イ「じゃあ科学と、その、芸術とかってどう違うわけ?」
ベ「科学は地味だね。芸術家たちはそりゃあ努力は並みのものじゃないだろうけど、その感性でひとっとびに本質を捕まえて、普遍性を形にすることが出来る。ところが科学ときたらその仕事の大部分が単調なデータの読み取りだったり実験の繰り返しだったりする。まったく科学を支えるそういう地味な仕事を積み重ねてきた無名の人々には頭が上がらない。
でもそういうふうに科学が地味で単純であるからこそ、誰でも科学に貢献できるし普遍性の発見に参加することが出来るんだ。これは芸術とか文学ではありえないことだ。天才画家や天才文学者の手伝いが普通の人に出来るわけがないけれど、データの読み取りや数値計算ならすることが出来る。しかもそれ自体が普遍性を直接作る仕事なんだ。こんなものは他にない。これは科学の大きな利点だし素晴らしい所だと思う。」
イ「でも最近は科学って一時より不人気だよね。」
ベ「そうだね。でも科学というのは悪いとかいいとか言っていいものじゃない。科学は人間によって作られたものじゃなくて、世界そのものだといえる。だから否定することは出来ない。人間はそれを発見して、その大いなる力の流れの一部を利用しているだけだ。だとすれば、例えば原水爆だって世界の本質そのものであることには変わりはないし、人間はまずその世界を受け入れなくてはならない。それからその世界でどう生きるのかってことが大切なんだろうね。」

合理主義への援護射撃

科学でもそうですが、最近の合理主義の不人気とか科学文明の失敗だとか言われて非難する風潮が広まり始めているようです。特に実践的な分野ではなくて評論的な分野ではその傾向が強いようです。
しかしよく考えると、それって濡れ衣なんじゃないかと思うようなものも多いのではないでしょうか?
特に環境破壊や公害について。
そういうのは大体合理主義の責任でも科学の責任でもなく、資本主義の責任であることがほとんどだと思いますが*1、もしかしたら資本主義が批判されたら困る人が責任押し付けてるんじゃないかなんて考えも浮かんでしまいます。


また合理主義についていえば、不完全な合理性の失敗が結果的に合理主義全体への批判につながることは残念なことです。
合理性というのある条件の設定の上に成り立っています。
これは科学においてもそうですが、例えば静止した物体を落下させた時の速度を示す式「v=gt」*2は計算上では成り立つことになっています。
しかし現実に実験すると計算で出される数値とは違った数字が出てしまいます。もちろん空気抵抗などの摩擦が働くからです。
紙での計算は実際の数値とは一致しませんでした、しかし計算が間違っていたわけではありませんし、合理的に考えるということ自体が間違っていたわけでもありません。紙での計算のときは「空気抵抗を考えない」という条件が付いているからです。ですから空気抵抗や摩擦を計算に入れて、もう一度計算し直せばかなり正確な数値だって出すことが出来ます。
しかし実際には、(「v=gt」はただの例えです。)
「合理的に考えて駄目だったんだから、合理性自体が間違っていたんだ。」
と短絡的に思っていしまう人が多いようです。しかし実際の問題は合理主義自体にあるのではなくて、前提にある条件が現実に即しているかどうかです。
ですから合理主義の問題を考えたいのならば、
「完全に現実に即した完全な合理主義は、実現できるのか?」
という観点で考えないといけません。

*1:そういえば公害のことを「外部不経済」で「市場の失敗」とも言われますね。

*2:ていうかv=mgって間違ってるし、かなりはずかしいー。気付かずにブクマしたおれせんさんもどうかと思いますが・・