絶対少年とは関係ない。

文化相対主義と価値相対主義とは別のものだろうか。私は似たようなもんだと思っているのだけれど確証は無い。しかしとりあえずこの二つを区別してしゃべってる人を見る機会も無いわけだから、自分の中でそういう事にしておいている。勿論このどちらか一つだって話題にする人は少ないのだから当たり前なんだけど。
 絶対主義と相対主義。これは相反する意味を持つ言葉だ。まさに対義語だ。辞書にだって書いてある。
 相対的な価値観は自分の意見も他人の意見も等価値にしてしまう。もっと誤解の少なく説明するために例を使おう。価値観というのは「高さ」のようなものだ。

残るのは距離だけ

A君が学校のグラウンドに立ってB君を待っている。
B君は4階の教室で居残りをさせられている。
4階はおよそ15メートルの高さになる。ちなみに危ないので最近は学校はたいてい3階建てで4階まであるのは珍しい。
さて、突然地球と地球上のもの全てがA君B君を除いて消滅しました。容赦なく。
A君B君は少しも動いてはいないのにもかかわらず、A君B君の「高さの関係」はこの瞬間に消え去ります。
実際にはA君とB君は三次元的な位置関係ですが、仮にA君がB君の真下にいたとすると、
A君とB君の距離は15メートル。A君とB君の関係は高さでは表せなくなりますからどこかに新しく座標軸を取らない限り、二人の位置関係は15メートルの距離があるということで表すしかありません。

つづき

座標軸が価値観の例えですから、一つの座標軸しかないと思っている人が絶対主義者という事になるだろう。なら相対主義者は全ての座標軸を認める人。ここら辺がよくひとに全ての価値観を認めるという事は全ての価値観を認めないという事と同じようなもんじゃないのかという素朴な疑惑を抱かせるところな訳だ。でも相対主義者も実際は現実的でないし不便だから、複数の座標軸を持っているだけでどの点だろうと座標の基準点にできるなんて人はいないのだ。
 とりあえず分かってる事は、相対主義に誠実な人は無気力になりやすい気がすることと、相対主義は不誠実に使うと状況によって使い分ける自己弁護の道具に貶めてしまう事が多いこと。
 だから相対主義者だからいいとかそういうことではないのだ。むしろ自分の足元は絶対的にしっかりしていて動かず、でも他の人を否定しないし別にいいんじゃないって言うのが理想じゃないだろうか。

本題

 価値相対主義は、他の人の価値観を認める考えかただ。
 とすると価値相対主義者は絶対主義者の価値観も認めることになる。ならば価値相対主義者が絶対主義者になることも可能ではないか?絶対主義者が相対主義者になることは熱力学の第二法則のっとれば無いのだけれど、その逆は?というとなんだか不思議な感じになってくる。
 絶対主義者が相対主義者になるには過去の考え方を捨てないといけないだろう。相対主義者が絶対主義者になれば結果としては過去の考え方を捨てた事になるが、しかし絶対主義者になること自体は相対主義に矛盾しない。
 これは言葉遊びみたいなものだろうが、
 それを言うなら価値相対主義という価値観が言葉遊びみたいなものだ。