子ども社会の難しさと単純さ

 皆さんいじめの話は飽きてきたようなので、あえて私は今さらまじめになって痛い要素を排除し少しはまじめに書いてみようかと思います。
 いじめ問題には二面がある。というのが私の経験的意見です。それは複雑に考えなければいけない面と単純化すべき面です。


 いじめを社会問題として大局的に捉え、その解決を探る時、いじめを単純化して考えるのは危険な事です。なぜならいじめというものは学校教育および地域社会、また家庭問題を媒介にしてあらゆる面で「社会」そのものと結びついている問題だからです。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200612050358.html

 教師が子どもに合わせ過ぎ、集団のルールが守られていない「なれあい型」学級は、ルールを守り子ども同士が主体的に活動している「満足型」学級に比べ、いじめの発生率が約2〜4倍高いという調査結果を、都留文科大の河村茂雄教授(心理学)がまとめた。(2006年12月06日01時11分:asahi.com

 こういう記事を見たり「子どもにルールを守る大事さを教えるべきだ」という主張がいじめる側への罰則の強化を話し合う場でなされるのを見て、思いだしたのは同時期に起こった高校の未履修問題です。
 そもそも教師も学校長もルールを破って必修科目をやらず調査書に嘘を書いていたというのに誰が生徒に向かって「ルールの大切さ」を教えられるでしょうか。そもそも生徒だけに向かってそういう事を教えようとする事に一抹の矛盾を感じるべきです。
 ルールを守れない学級にルールを破っていじめをする人が多くいるのなら、こういう全体への連想は容易です。ルールを守れない学級はルールを守れない学校に多く、ルールを守れない学校はルールを守れない社会に多い、というような。
 根本的問題が社会に根深いのなら末端での対応は逆効果あるいはその場しのぎになるだけで、いじめは消えても違うもっと陰険な捌け口に形を変えるでしょう。(勿論もっと無邪気ないじめには効果があると思います)例えばいじめの火付け役になったり主導したりする人というのは、色々な場合がありますが、いじめが何かの代償行為になってる場合があります。彼は他の理由により焦っており追い詰められているために、別に楽しくも無いいじめをやらない訳には行かない状況にあるのかもしれません。こういう場合救済すべきなのはいじめっ子の方なのかもしれませんが、それにもかかわらず彼をただ罰しても意味がありません。
 この間朝日のコラムで水谷修さんが「調査書に嘘を書いた教師を起訴しないのはおかしいのではないか。」と言っていたことが引っかかっています。そのとおりですし、ルールを守る大切さを生徒達に教えるにはいじめへの厳罰化などよりルールを破った人への毅然とした態度の方がよっぽど良かったでしょう。今からでもいいからその似非教師達を逮捕してくれないかなあと望んでやみません。(告発すればいいでしょうか?)


 さてもう一つの面というのはもっと小さな視点、いじめられる側の視点から見たときのことです。いじめられる側に大切な事は物事を客観視する力と逃避して依存する事が可能なものがあるという事だと思います。後者は置いておいて、物事を客観視するためには物事を単純化して考える方が具合がいいですし、殆どの場合そうする事で物事の本質が分かります。
 具体的に言うと、いじめられたときに、いじめる側がどうしていじめるのかとかどういう気持ちでいじめるのかとか社会が悪いんじゃないかとか自分の行動を変えたらいじめが無くなるんじゃないかとか考えるのはほぼ無意味です。そういう人間の機敏的なことを考えても仕方がありませんし、物事はそう簡単には変わりません。
 そこで考えうる限り単純化してみると、「いじめっ子」というのは自分を攻撃してくる外敵だという考え方も出来ます。外敵は自然界における天敵がそうであるように、攻撃によって得られる利益が損よりも大きいから攻撃してくるわけです。(目先の利益しか見えない馬鹿ばかりですとリスクという言い方は誤謬があるでしょう。)こう考えればいじめを止めさせる方法は簡単に分かります。守りを固めて相手が得をしないようにするか、相手の損が利益を上回るくらいに攻撃すればいいのです。そして相手が馬鹿(たいがい馬鹿ですが)であればそれをわかりやすく伝えてあげればいいのです。
 いじめっ子に金品を渡していたやつなんて救いがたい馬鹿ですね。お金で買えないものもあるんですよといってあげたい。身の安全とか、友達とか。経済交流が増えれば戦争は起きないから軍隊は必要ないなんて言ってる人たちの影響ではないでしょうか。全く経済的依存が増えれば平和維持できるみたいな主張をしておいてかつ拝金主義を批判するんだから左翼の人たちの主張は分裂気味ですね。まあこれは余談です。
 ところで私はこういう考え方こそが「人間関係」の基本なんじゃないかなあとときどき思う事もあるんですが厭世的過ぎますでしょうか。