「なぜ人を殺してはいけないか。」

この質問の意味することはとても多い。
このように昔は当然とされて疑われなかったこと。それは疑いようのない実感が伴っていたからである。それは多分内臓への忌みのようなものだっただろう。他人の破壊は人の内部と外部をめちゃくちゃにすることであってその気持ち悪さは今でも実感できるとは思うのだが。
そうすると今それが疑えるということは死の意味のほうの変化を理由に求めた方がいいかもしれない。サブカル化のような方向で。
しかしそれを論理的に説明しようとしてできないのは、論理や理屈が実態からかけ離れたものになってしまっているからかもしれない。つまりそれは現実にあっていない。あるいは、命の意味というようなものは普通は実感によって理解されるものだから本当はインドアは荷は向かない話なのだ。
それを理解するためにはおそらく肉体の実感というようなものが必要なのだ。そして理解できる人はたいていそれをそれを論理的に説明できる言葉を持っていない。
説明するためには二つの間をつなげる言葉が必要なのかもしれない。


この二つというのが脳と肉体のことである。
この世界は既に脳化社会なのだという。誰かが脳の中で考えて作った世界の中で暮らしているというような意味だ。他人の脳の中で生きる人々は自分の肉体への認識が薄れていく。皆自分の身体を強烈に意識することなしに生きていく。徴兵制がないとなおのことだそうだ。それは現実と想像の境が狭まった社会である。その二つを隔てるのは実に肉体だけだからだ。
またここにきて情報化社会だとかいう。良くわからないが字義どうりにとれば、情報としての自分がさらに幅をきかせ物質としての自分を知ることがさらに少なくなると考えていいのかだろうか?そうなると人はただ情報としての自分を知っているだけになる。大勢の人間と同列化された情報である自分自身にのみアイデンティティを探さなければならないような社会であれば、「死」というものは或いは、名前、年齢、血液型、身長、体重、、、等と膨大に続く個人情報の最後に「死亡」と書き足すことしか意味しないかもしれない。
それはまさに「脳=自分」の世界である。
肉体を全てサイボーグに置き換えるという未来社会を描いたSFアニメがあったが、その作中で人間の心のようなものをゴーストと呼び変えているのは実に的を得ていると思った。人工知能を含めないのはどうなのかということは置いていて、肉体をなくして情報だけとなった人間はまさに亡霊のようだ。亡霊はさまよう。脳化された社会の中を情報としての脳がさまよいさらにその内側に、まるで迷宮のように、脳内世界を何重にも作り上げていく。


さてこの質問がされそれに大勢がまともに答えそして答えが出ないというこの一つの図式は、あるいはかなり世紀末的様相なのかも知れず、そうすると大江健三郎さんがああいったのも分らないことも無い。このような質問がされてこのような質問がされて大勢がまともに悩むような状況は生の実感自体が薄れていることを意味しているからだ。
結局分る人には言葉で説明する必要はなく、分らない人に言葉で説明しても実感がなければ本当の所は良く理解できないだろう。
ではあえて言葉で説明する意味は何か。
それを理解してもらうためにはこの質問に顕著に映し出されているもう一つの特徴に気付かないといけない。
脳化社会ということだけならば、江戸時代だってそうだったのである。しかし江戸の町でこの質問をしてまじめな答えをもらっても「かわいそうだから」あるいは「駄目なものは駄目」ですんでしまい、誰もそれ以上考えることが必要だとは考えないだろう。
勿論前者はおそらく「情」後者は「倫理」による説明である。これで皆が納得するだろうという根拠は、その時代は情や論理が疑われることなく信じられていただろうということだ。
それに対して現代では情や論理は完全には信じられなくなった。
例えば、
倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「… - 人力検索はてな
この質問もこの条件からして、これらが疑うことができるものであると言っているようなものだ。このルールに則って回答する人もしかりである。
狂信的に信じること、原理主義の怖さが言われるが、しかし信じられるものがないことも同様かそれ以上の問題である。信じられるもののない人は必然的に快楽主義へと向かう。それも気が付かないうちに。というのもそれが「人生楽しんだもん勝ち」というようないかにもポジティブな言葉で喧伝されているからである。しかし快楽主義にとって人生は楽しくなければ意味をなくすのではないか?抜け出せそうもない苦しみに出会った時彼らはむしろ積極的に死を選ぶのではないか?という疑問を私は消せない。
そして大部分の人にとって人生はそれ程楽しくないのである。


さてこの信じられるものという点ではこの質問からは希望的な面も知ることができる。例えばさっきの質問者は他のものを除外しておきながら「論理的に」説明しろといっている。彼は神を信じなくとも論理は信じるのだ。言い換えると目の前の炎が本物かどうか疑っても1+1=2であることは疑うことができないのである。これは質問に答えている人も同じだろう。1+1=2を疑える人は今の時代にはあまりいない。(いたとしても他のものを信じているだろう)
だとすれば他の何も信じれなくともただ論理的に説明可能であるならば、他の快楽主義的な理由が崩れさって、つまり「めんどうだから」とか「自分が殺されたくないから」とか「捕まりたくないから」等の理由が「自分がどうなってもいい」ということで翻され、「楽しいから生きる」が「苦しいから死ぬ」に反転しても、あるいはその1+1=2を信じる心でそれを信じることが可能ではないかと思うのである。
たとえ実感など少しも無くても。



しかしだから現代人が特殊だとか可愛そうだとか思ってはいない、これはただ単に江戸時代の「情」や「倫理」が、「論理」に入れ変わったというだけのことかもしれない。




褒められて嬉しかったので貼っておく
命の価値と、あとついでになぜ人を殺してはいけないかを論理的に説明する。 - 卓上洗濯機