過去の人への理解について。

尊敬語は相手を持ち上げ、
謙譲語は自分を引き下げることで相手の立場を相対的に高くして敬意を示すのだと習ったことがあります。
しかし、そのもともとの立ち位置というものはいったいどういうものなのでしょうか。


尊敬語や謙譲語の時と同じことが異なる時代の偉人、或いはただの有名人を理解しようとする時にも行なわれます。
私たちは「過去の偉人」を美化し特別視し、自分などにはとても出来ないことをした人物として尊敬するかもしれません。
しかしそこにはしばしば「自分が出来ないこと」への言い訳が存在します。
また逆に「過去の偉人」達を卑下し低俗的にその行動を理解することで自分自身にひきつけて考えることもあります。この方法は「過去の偉人」達への特別視は生まず、逆に親しみを覚える結果になるかもしれません。
しかしここで卑下されているのは「過去の偉人」だけではありません。偉人の卑下は自分への卑下と結びつき、卑下された自分への肯定を生み出します。
そこにまた自己防衛の欺瞞の構造が現われています。


美化も卑下もされる前の過去の人々と自分自身の関係というものを出来るだけ正しく知るためには、上記の過ちと同じ轍を踏んではいけません。
上記の過ちは結局、自分自身を中心に考えていることにあります。ですからもちろん相手を中心に考えるということは、出来るだけ自分と比べるということとは切り離されなければいけません。
「過去の偉人」への理解には、当然自分自身の行動と経験を参考にしなければどうしようもありません。しかしそれはあくまで一般的な意味で参考にされるべきでしょうし、「相手の身になる」ということと「自分にひきつける」ということを出来るだけ混同してはいけません。これは実は難しいことなのですが切り離して考えることは大切なことです。


そしてある程度形が分ってきたとき、或いは式として(近似式として)完成した時、そのとき初めて自分自身と比べることが出来たなら、それは私たちとの本来の立ち位置を知るために使うことができ、そこで初めて過去の人への理解に役立つかも知れません。。