「利己的行動学」生きていけない弱者はどちらか?或いは、「どうして、メカニズムの解明が、あなた達の言うところの「意味」を「無意味」化するようなものとみなされるのか?」

これはid:p_shirokumaさんへの応答です。


エモーショナルなプロローグ(やっぱりエピローグはやめました。)を付け加える。*1

「利己的行動学*2」を採る人たちのしていることは
「何もかも石が落ちるのとおんなじだよ、でも意味や価値がないわけじゃないよ。」と断言することです。ああ確かに多分どんな反論でも論理的に封じられるんだから正しいんでしょうねえ。
えーっと「意味がある」んですよね。
じゃあつまり石が落ちるのにも意味があるんでしょうねえ。
ってふざけてるんですか?
そんなこと納得できるわけないでしょう?
花の美しさも友達との楽しい時間もあの子の面影も「夏の雲とか冷たい雨とか秋の風の匂いとか傘に当たる雨の音とか春の土の柔らかさとか、放課後のひんやりした空気とか、黒板消しの匂いとか夕立ちのアスファルトの匂いとか夜中のコンビニの安心する感じとか、そういうもの*3」も、
すべて石が落ちるのと同じですか、だから石が落ちることに価値があるので同じように価値があるんですか?
冗談でしょう?
石が落ちるのに価値を見出せるわけがないでしょう。
「利己的行動学」は確実に人の思う「価値」を破壊しているし、それでも価値を見出すためには石が落ちることに価値を見出すしかないと自分で言ってるじゃないですか。
そんなの「ハア?、石が落ちることに価値?ふざけんな。」が普通の反応ではないですか?
「利己的行動学」をそれでもさも有益なもののように語りたいのなら、過去の遺産である「価値体系」相当する代わりのものを今すぐ用意してください。
そんなことを「利己的行動学」を採っている人にする用意も能力もあるとはとても思えない。
そして何よりその気持ちは全くない。そんなことが必要だと思いもしない。ああ確かにあなたがたには必要ないでしょうね。
しかし石が落ちることに価値が見出せない頭の悪い人達にはそれが必要なんですよ。

ここからもうちょっと冷静に。

「利己的行動」という言葉を使う際の慎重さと軽率さ・メリットとコストに関して - シロクマの屑籠

2006-07-29 - 卓上洗濯機

2006-07-30
という順番。




さて、
id:p_shirokumaさん(以下シロクマさんと呼ばせてもらいます。)の言っていることは何一つ間違っていない。すぐ反応したにしては量もかなりな上に整合性も大体取れている。私が時間のあるはずの学生のくせに返事が一日越しだったり、「の」と「な」を間違えたりしていたのと対照的ですね。
しかしシロクマさんは何も言っていない所で間違っています。

人間行動のメカニズムへの接近は、「意味」を失わせるものではない。

確かにそのとおりですね。
そこまで割り切って考えられるのなら。

薔薇が咲くメカニズムが分かったとて、薔薇はやはり綺麗です。

これは少し例えが間違っていますね。

なぜ人間が、薔薇が美しいと感じるのかというメカニズムが分ったとて薔薇はやはり綺麗です。

くらいが正しいでしょう。
確かにそのはずです。
しかしあなたは筋の完全に分っている映画を楽しめますか?
或いは、頭のいいあなたは、「セカチュー」を見て泣けますか?

私が(この場合に)主要な議論対象としているのは、(中略)「恋人にパフェをおごたい気分になる「意味」」でもありません。

確かにそれはそうでしょう、しかし私は「恋愛が脳内分泌物によって作り出されるのなら、エロゲーでいいじゃん。」というルサンチマンを聞いたことがあります。

ゲームのルールにちょっと詳しくなったからって、麻雀がつまらなくなる筈が無い

しかし、アイボの技術者がアイボを可愛く思えないことをどう思いますか?


まあエモく言うとこんな感じです。


とりあえずシロクマさんのところから、三分の一ほど引用。読んだ人は飛ばしましょう。

 このテキストでは一つめを挙げます。私の近似式が十分に正しいものとして、その式を運用するとニヒリズムに取り憑かれて「イヤになっちゃうのか」という事に関して。

 

 私がしばしば不思議に思うのは、私の構築するモデルが十分に確からしいということが分かったとき、例えば私は「俺、無意味死んでもいいじゃん」とニヒリズムの虜になっちゃうしかないのかな?という事です。仮に、人間の行動が全部近似計算出来るとしとして、その事が生きる意味なり喜びなりの有無が等号で結ばれる理由がさっぱり分かりません。私にとって別個の命題なんですが、どうやら、そうでない人が多いようですね。別にそれはそれで構わないことですし、そういう考えの人からみれば私の考えはうざったいものには違いないでしょう。

 

 喩えてみると、それって「温泉が気持ち良いメカニズムが分かったら、温泉を楽しめなくなる」ってのと同じ杞憂なんじゃないですかね。或いは、モテる方法がわかったら女の子に欲情しなくなるっていうのと同じ心配なんじゃないですかね。薔薇が咲くメカニズムが分かったとて、薔薇はやはり綺麗です。一年に一度花を咲かせる事が分かっていても、散り行く桜は名残惜しく美しいものです。同様に、人間の行動メカニズムが解明できたとて、恋はやはり甘いでしょうし、子どもをかわいいと思う親の気持ちは本物のままでしょう。もし、あなたが、メカニズムを知っただけで温泉に入るのがすっかりつまらなくなったり、桜の開花に関する研究を進めたら花見に行く気にならないような人なら、やはり大いに心配すべきでしょうが、私はそういう人間ではないので、人間行動に関するメカニズムに関する力学法則を知ったところで、私の人生が灰色の世界になっちゃうなんて事は無いでしょう。

 

 むしろ、僕は聞いてみたいことがある。どうして、メカニズムの解明が、あなた達の言うところの「意味」を「無意味」化するようなものとみなされるのか?違った言葉で質問し直すなら、何故あなた達は「メカニズムの解明」すると「生は無意味!」と考えちゃのか。うーん足りないな、もうちょっと意地悪に聞けば、あなた達のいう「意味」って何なのさ?って事ですかね。ここで、私の考えに似ているっぽいid:fromdusktildawnさんの記事を引用してみますね。

 

上記のPhenomenon氏の記事は、それについて、まず最初に抱かれがちな疑問だと思われるからです。

偽悪的な表現はともかく、要は、それって、石が落ちる「仕組み」を説明しているだけで、「石が落ちる「意味」」とは、違うもの何じゃないの?ってことです。

 

 私がおかしいよと思うのはここです。私が(この場合に)主要な議論対象としているのは、「石が落ちる「意味」」でもなければ「恋人にパフェをおごたい気分になる「意味」」でもありません。「石が落ちるメカニズム」であって「恋人にパフェをおごりたい気分になるメカニズム」です。id:Phenomenonさんの仰る、「そんなことは初めから知っているし、その上であえて<意味>と<価値>を作り出すのが人間」という言葉のなかの、初めから知っていると仰るソコの所をもっともっと解剖してみたいわけなんですよね。後続のテキストで書きますが、ここの解剖だけでも、随分と工学的なメリットがあると思いますし、事実メリットに与っています。fromさんが仰るように、それらは別個の命題として取り扱うのが適当なんじゃないか、と。

 

 ああそう、ついでにちょっと突っ込ませていただきますね。「あえて<意味>と<価値>を創り出すのが人間」という表現、どうなのかな、とは私思いますけどね。じゃあそれが創り出せないヤツの生は無意味で肯定する価値も無いものみたいに聞こえますから。ははぁ、頭が良くて心清くて強い人間だけが意味があるってわけなのかな?いや、そんな事をid:Phenomenonさんが目論んでいるとは考えたくないですが、なんとなく知的優越感を感じたくなるようなコメントかな、ととる事も出来ます。id:Phenomenonさんがそう思って無くても、そう勘違いしちゃう人が出てきそうな。

 

 仮の「あなた」に対して語りかけてみますね。

 なんか、“俺は路傍のコウロギになりたくない”“人間的な意味がある”という願望でも隠れてるんじゃないですか?“「利己的行動」その方法では生きていけない。”なんて言うけれど、それって単に、あなたが「あなたの言うところの意味」とやらに執着しながら生きているから、であって、私はあなたの言う「意味」とやらが無くても多分飯喰って糞して生きていけると思うんだ。ついでに、そんな事を考えたり求めたりする事のないコウロギやミミズ達すら、生きていけると思っていますよ。もっと言えば、コウロギとしての一生やミミズの如き一生を無意味として退けるのは凄くまずいと思うなぁ。コウロギは生きているよ、立派に生きて、精一杯鳴いて、凍えて死んでいく。私がもし一介のコウロギ(それも大脳新皮質を持ったコウロギ)だったとしても、意味が無い意味が無いとかダダこねて自殺することは絶対に無いと思う。なんで、無意味になるんだろ。なんで、絶望しなきゃいけなくなるんだろ。あなた達のいう「意味」とやらは、コウロギの生存には不要なモノだと思うし、コウロギの一生を彩るのに必須のものでもないと思う。そんな「意味」とやらの有無によって、何故生が頓挫したり摩耗したりするのかな?そんな「意味」の云々を追い求めるのは、あなた達が飢えているからであって、それが生物の、人間の生に必須のアミノ酸だからというわけではないと思うんですがどうですか。

 

 それに、あなた達の言う「意味」とやらで生を云々すると、頭が良くて偉大な学者の生が最高で、次にあなた達の生がexcellentで、良識的な人の生がgoodで、DQNの生がfine、それでそれでそれで……発展途上国でのたれ死にする子どもの生は無意味無価値で、チンパンジーの交尾は見るに堪えないもので、ミジンコの生は考えるだに無駄なもの、という事になりそうでちょっとイヤだなぁ。むしろ私は、人間もミジンコものたれ死にする子どもも、同じように無意味で、同じように有意味だというモノサシでモノを眺めたいと思うんですけど*1。例えば私がこの先栄華を誇ったとて、子どもを245人つくったとて、エロゲーしかやらない人生だったとて、四日後に交通事故で死んだとて、私の生が急に有意味になったり無意味になったりするとは私は思わない…あなたは思うかもしれないけれど。「意味がある」とか「意味が無い」ってぇのは、わけわかんないヒエラルキーなんじゃないの?私は、生きとし生けるものの「意味」なんてものを天秤にかけて有無や多少を計る勇気は無い、というかそんな得体の知れない天秤は不気味だと思うのが私だ。敢えて言うなら、諸行無常のこの世界では、全ては無意味だし、全ては有意味なんじゃないの?そんななかで私は、『全ては有意味、十分有意味、少なくとも絶対無意味じゃない』、という意見を採用している。私は悪魔のように狡猾な人間で、ずるくて、弱虫で、身勝手な人間だが、それでも自分の生を肯定出来る。もう一回り弱くても、同様だろう。また、ケモノのように生きる人や、書斎に引きこもって本に埋もれてヒステリーを起こしている人の生だって肯定せざるを得ないと思っている*2。

 

 こんな私なので、ついつい「意味」だの何だのを拝みまくって「生きる為に意味が要る!要る!」と言っている人達がどうしてそう言い続けるのか怪しいなぁと思っちゃう今日このごろです。まるで、「成功」とか「知的優越」とか「倫理」とかいった憑き物のある人が有意味で、それらが無い人や動物たちは無意味、っていうような傾斜を勘ぐってしまう以上はね。例えば私のような「悪いやつ」の生を、「よいやつ」の生より有意味だって即断するような人には、こういう疑惑を勘ぐっちゃうなぁ。そりゃあね、そういう「意味」は保持していると気持ちいいよ、楽しいよ、何か、自己実現出来た気分になれるよ、だけどその「意味」とやらを背負ったり保有したりした気分になる事が「有意味の兆候」なのか、僕には分からない。「気分をご機嫌にする為のツール」としてなら有用性を認めるから、そりゃあ私もそういうのを内服することはあるけれどもね。でも、そんなのエロゲーとかビタミン剤とかと同列に扱うべきサプリメントぐらいの気持ちで取り扱っている。しかも大量服薬したら中毒になりそうな、ちょっと危ないサプリメントね。

 

 最後に、灰色の世界について付け足しを。

 

 灰色一色にぬりつぶされたのっぺらぼうの世界に逆戻りだ。だれももう一度線を引き直さないからですが

 私はその灰色の世界を生きている。この灰色の世界を、私は娑婆世界、って私は呼んでますけどね。多分、ニーなんとかさんも、世界が灰色だって事はとっくに気付いていたんじゃないかなぁ。だけども、私はその灰色の世界で恋をして、灰色の世界で歌を歌って、灰色の世界で酒を呑んでいる。恋は甘く、歌は楽しく、酒は旨い。私は、この娑婆で執着にまみれながらも、その執着がメカニズムに誘導されたものと自覚しつつも、でも楽しく苦しく精一杯生きている。ゲームのルールにちょっと詳しくなったからって、麻雀がつまらなくなる筈が無いのと同様、娑婆が灰色という事を知ったとて、個人としての私は顔を赤くしたり青くしたりしながらやっとるわけですよ。確かに時々灰色の空に憂鬱になる事はありますよ?でもそれは大抵、ネットをやっていたり本を読んでいたりメタ視点でいい気になっている時で、一生懸命何かに取り組んでいる最中はそんな事を視ている暇が無くなっちゃいます。

 

 んで線を引き直す?ははぁ、そりゃ無理でしょう。娑婆は常に灰色だから、線を引き直す事は決して出来ない。ただ、虹色の天幕をあなたの周りに張り巡らせることで、娑婆の道理から目を逸らせることは出来ると思う。私はあまり奨めないけれども、それがあなたの適応を向上させる良い手段だとすれば、虹色の天幕を貼り付けたり、あまつさえ他の人達に渡して回ったりするのも良いと思う。そんな人がいるのも、また娑婆だというのが私の理解なので。

ここで引用終わり


私の文章に対してシロクマさんがマッチョなイメージを持ってしまったのは仕方が無いところもあります。全ての原因は「その上であえて<意味>と<価値>を作り出すのが人間でしょう。」という部分が「生命の価値」にもかかると思われてしまったことだと思います。それは違います。しかしそれでなぜ矛盾しないかは改めて説明が必要でしょう。
しかしながら私はそれ程強い人間ではありませんよ。むしろ「意味」がなければ生きていけないような、そこまでいかなくても不安になるような人間です。
カルトにはまってしまう学生や、神にすがる貧しい人々を強い人間だと思いますか?
ここをシロクマさんは
「個人個人が意味と価値を自分で作り上げなければいけない。」
と誤読しているのが勘違いの原因です。
そしてそれならばむしろ、これまでの価値を好き勝手に破壊するだけ破壊して一から価値を作りなおすことを強要しているのは、そちらの方でしょう。しかも破壊だけしてあとは人にまる投げしている。

シロクマさんは私が強い人間だと勘違いされていたようですが、「強者」なのはむしろシロクマ*4さんですよね。
「技術的問題」と「意味」を完全に分けて考えるような、、或いは「考え方」と「意思」を分けて考えるような考え方こそ強い人間の考えだと思います。

しかし実の所私はシロクマさんがそこまでスーパーマンちっくな人でなくて安心しました。

確かに時々灰色の空に憂鬱になる事はありますよ?でもそれは大抵、ネットをやっていたり本を読んでいたりメタ視点でいい気になっている時で、一生懸命何かに取り組んでいる最中はそんな事を視ている暇が無くなっちゃいます。

ちゃんと分ってるじゃないですか。ならば問題はメタとベタなるものが分けられると思っていることでしょうか?
いやそこまで言わなくても、一生懸命何かに取り組んで「夢中」で生きていけない人が、メタ視点で生きていかないといけない人が沢山いるのだということを思い出してください。
どちらにしろ人間は死ぬまで夢中ではいられませんよ。
「人間の行為は最終的には全て失敗する。」
ならば少なくとも自分の力で死ぬまで夢中でいるには武士的な努力が必要でしょう。夢中でいるなら大丈夫だから大丈夫では通らないと思うのは私だけですか?
生きていくうえで常に夢中でいられる人なんて限られていると思います。



さて
「仕組み(メカニズム)の解明が意味を無化する一般的な例は、そうですね、例えばテレビです。
物が見える仕組みとあと、映像を遠くへ送る方法が見つけられたおかげで私みたいな微妙な野球ファンには、球状に足を運ぶ意味がなくなってしまいました。
未来社会においては家にいながら会社にいるように働けるようになるため、家を出る必要が(少なくとも会社に行くためには)なくなると言っていたのは誰でしょうか。とりあえず人間が行動する意味は確実に減っている様な気がします。
しかし大きな影響は頭の中で起こるのではないかと。
ある人が何かをしたいと思ったときそれをしたい理由が、頭の中であるホルモンが分泌されるから、或いは外から注射器で注入されてるから。だと正確にわかっているとして「さめた状態」でその行動をすることに意味があると信じられますか?(或いはテレビ=薬物という結論でいいのでは?)
あらゆることにそういう注釈がついていたとしていったい何に意味があると考えればいいんですか?この状態で「インテリジェントデザイン」だとか「宗教」だとかいう意味を持ってくればそれは「利己的行動学」と矛盾しますよね。それならば「利己」なんていう中継点は省略して直接その「意味」へ向かえばいいんですから。
そしておそらくシロクマさんは「全て無意味だから全て有意味。」だと転換的な考え方をしようとしているんでしょう。
しかしそれは強者或いは、人生の大体のときに夢中でいられる幸運があって余裕がある人にしか出来ない考え方です。
つまるところそういう風な考え方の人は、追い詰められたらすぐ死んでしまうのでは?というのが私の素朴な疑問ですが。


そういう人たちに価値が無いというのではありません「生命の価値」はむしろ考える以前に求められるべきでしょう。というのも生命は人間が生に真正面から向かい合う時いやおうなく人を先ほどの意味での「夢中」の中に引きずり込みますから。これが先ほどのなぜ「生命の価値」だけ特別扱いするか、ということでもあります。
しかし人は例えば自分の左手を右手の金槌で叩いてつぶすことは出来なくても高層ビルの屋上から飛び降りて全身をぐちゃぐちゃにつぶしてしまうことは出来ます。
人は本来考えるように行動するものだと思いますが、ではその冷めた視点で考えることが結果全てを無意味にしてしまうと考えてもおかしくないでしょう?
つまりいつもは仕事などに一生懸命で夢中になっていてさめた考えなどない人が突然、ある理由で夢中でいることが不可能になり、さめた視点を持ったときその人の生きる意味はなくなる、つまり頭の中ではということになりますが、さてそのひとがビルから飛び降りる、地面が近づいてきてから「肉体」がもつだろう根本的な「生命の価値」が現出してももう遅い。そのとき死にたくないと思ってももう死んでしまいます。


メタ視点、客観視は確かにいい気になった考えかも知れません、しかしそれが一番つらいんじゃないでしょうか。メタ視点をしてしまう人が求めているのはもう一度夢中になることなのでは?
そしてシロクマさんは実はかなり幸せな人なのではないですか?

こんな私なので、ついつい「意味」だの何だのを拝みまくって「生きる為に意味が要る!要る!」と言っている人達がどうしてそう言い続けるのか怪しいなぁと思っちゃう今日このごろです。まるで、「成功」とか「知的優越」とか「倫理」とかいった憑き物のある人が有意味で、それらが無い人や動物たちは無意味、っていうような傾斜を勘ぐってしまう以上はね。

まあここらへんは私の言う「意味」の意味を勘違いされているのだと思います。前述したとおり生命である以上、コウロギの持つ意味(価値)も人間の持つ意味も、それに内在されるものによる以上差別できないと思っているからです。
だからそれは私によっては決められません。
勿論あなたが全て無意味だけど全て有意味だなんていってもいけないでしょう。確かに平等で滋味に溢れた考えに見えるし、アニミズムを信じようとしている私には共感出来る所もあるのだけれど。しかしそれには説得力のある理由が存在しない。
それでそれを本当に信じられていますか?
あなたの気分次第で全ての価値がまた反転する心配はないんですか?


さて灰色の世界について。

 私はその灰色の世界を生きている。この灰色の世界を、私は娑婆世界、って私は呼んでますけどね。多分、ニーなんとかさんも、世界が灰色だって事はとっくに気付いていたんじゃないかなぁ。だけども、私はその灰色の世界で恋をして、灰色の世界で歌を歌って、灰色の世界で酒を呑んでいる。恋は甘く、歌は楽しく、酒は旨い。私は、この娑婆で執着にまみれながらも、その執着がメカニズムに誘導されたものと自覚しつつも、でも楽しく苦しく精一杯生きている。ゲームのルールにちょっと詳しくなったからって、麻雀がつまらなくなる筈が無いのと同様、娑婆が灰色という事を知ったとて、個人としての私は顔を赤くしたり青くしたりしながらやっとるわけですよ。確かに時々灰色の空に憂鬱になる事はありますよ?でもそれは大抵、ネットをやっていたり本を読んでいたりメタ視点でいい気になっている時で、一生懸命何かに取り組んでいる最中はそんな事を視ている暇が無くなっちゃいます。

 ニー何とかさんはどうか知りませんが、灰色の世界で恋をして、灰色の世界で歌を歌って、灰色の世界で酒を呑んでいるとき私たちはそこが灰色の世界だとは思っていないんじゃないでしょうか。
私はそれは本物の色彩豊かな世界だと呼んでしまいたい。
世界が灰色だなんてそんなにしょっちゅう思っていられるわけではないし、そもそも本当に楽しむということはそんなこと忘れちゃうということでしょ。
そして時々それを思い出したとき、私たちは憂鬱になる。さっきまでの楽しい時間も本当は灰色の世界だったんじゃないかと思って。
そんなことは否定すべきだと思う。本当に心から信じられた時点でそれを肯定してあげなくてはといつも思う。


だから少しばかり世渡りがうまくいくからって、そんなことを考えることが誰にとってだろうと*5有益だと思わない。





うーん。
まあこんな感じですかね。舌足らずでまとまってない気もしますが。
個人的には結局シロクマさんは少し物を一元的に考えるところがある様な気がします。
どうも疑問系で終わる文が多くなってしまいましたが。余り気にしないでいただけるとありがたいです。あとid:fromdusktildawnさんの考えはある意味私と考えと近い気がします。典型的症例みたいに見られてそうなのはしゃくですが。

*1:本編の方では本来伝えたかった「動機」の方が、暑さでフリーズするパソコンへ怒りが分散してしまったために詳しくかけなかったので。こういういきなり付け加えたりするようなやり方はブログとしておかしいというか、肌に合わないかもしれませんが寛大な気持ちでお願いします。

*2:表記しやすいように勝手に作りました

*3:これまたエモい漫画からの引用

*4:そういえば熊というのは毛の色が薄いほど強暴だそうですね。白熊って強いんでしょうか?はい関係ありません。

*5:探求することに全てをかけているような人は(科学者や芸術家?)は別ですよ。