デスノートがあれば使うなんていう奴は屑だ。

何かって言うとさっき昼食時にテレビを見たんです。たかじん?そんなのあまり知りませんが、
とにかく「デスノートがあれば使いますか?」なんて質問をしてそれに対して
いい大人が大勢揃って使うだの使わないけど場合によっては使うだのいってるんです。
この人たち大丈夫でしょうか?
デスノートがあれば使うなんていう人は屑です。
人が見えないからってイラクにミサイル打ち込みまくった奴と同じ人種です。

司法を敵討ちにたとえるな

どちらかと言うと「敵討ち」に失礼です。
いいですか?敵討ちって言うのは失敗したら敵討ちしようとした被害者も返り討ちにされて殺されるんですよ?
どこが司法と似てるんですか、死刑に失敗したら死刑囚を助けるって話はありますけど死刑に失敗したら代わりに被害者を殺すなんてことはありえません。そんなのは笑止です。


例えば私の友人に熱狂的なクワガタマニアがいまして、余りにもクワガタを偏愛していて、「80ミリのオオクワでこの美形だよあああ。」とか言っていたので、試しに私が「そのクワガタつぶしたらどうする?」とか聞いて見たところ、低い声で「殺ス。」と言われました。眼が据わってました。
私がそうしたら彼は確かに殺すでしょう。彼にとってクワガタにはそれだけの価値があったからです。彼にとっては敵討ちと同じです。
しかし裁判になって彼が死刑を求刑しても司法が私を殺さないのは、司法が基本的に被害者の敵討ちをするためのものじゃなく社会の秩序を守るためのものだからです。
(この話はいろいろと深く掘り下げられそうですがとりあえず今はここまでで。)

赤穂浪士はなぜ正しいか。

敵討ちといえばまず忠臣蔵赤穂浪士が思い浮かびます。
討ち入りした彼らが全員腹を切ったのは、平時に人家に踏み込んで住人を皆殺しにする極悪非道さを知っていたからです。
だからこそ彼らはそれでもそうしなければいけなかったと証明するために腹を切りました。楽に自殺したのではありません、腹を切ったんです。
これは武士というもの全体の考え方かもしれませんが。

デスノートを使わないと殺せないような奴が殺してはいけない。

人殺しをする事は最低です。相手が誰であれ。
だからデスノートがあったら使うと言うような奴はさらに最低なのです。
本当にその人を殺したいなら、あなたの家の台所に包丁があるでしょうからそれをもって今すぐ殺しにいってください。
そしてそれを相手に突きさして刃が肉に刺さって血が吹きでて、相手の命を奪う感触を直接感じて下さい。
それが出来ないなら仇を殺す資格なんて無い。


デスノートがあれば殺せるなんていう人は本当に殺したいから殺すのではなくて「殺す」ということが実体から乖離した概念にされて「殺しやすくなった」から殺すんです。
そんな奴らは相手が見えなかったら核のボタンでも平気で押すような人種です。


そもそもテレビを見て感じる「義憤」なんて「豚の憤り」なんです。それで人を殺すなんて生命への冒涜なのに。
これからマスコミによってますます司法の場を被害者の復讐の場と捉えられる風潮が広まるのが心配です。
そうなった時司法の場は「敵討ち」の場などでは勿論なく「豚の憤り」によって人を裁く場に堕落してしまいます。