アニミズムへのイントロとしての絶望

ぶっちゃけ、絶望は日本の伝統だと思います。
「絶望」と言う言葉はとにかくネガティブな言葉として刷り込まれすぎていて困ります。何が刷り込んでるんだと言われても、当たり前ですがテレビも新聞も小説も映画も漫画も大体絶望はネガティブに描くので、あえていうなら何でしょう。西洋文化全般?
しかし日本では中世の時代から絶望したら出家してたりしたわけで、別にそんなガン細胞みたいな扱いされることもなかったんですね。最もその頃は「絶望」とは呼ばなかったでしょう。


「絶望」とは何でしょうか?
しかしそんなテーマで延々と話をつなげるのは全く無駄です。絶望は言葉です。
だから定義が茫洋としているなら自分で定義しておけばいいでしょう。
まず最初に、感情の伴った絶望は純粋な絶望ではありません。そしてたぶん感情の伴わない絶望は人体には無害です。
んでもって人間って大体感情の波に乗って絶望するんですが。
それはともかく、
絶望とは価値観をなくすことです。世界にあるあらゆるモノを無価値だと知ることです。物だけじゃないあらゆるモノをです。
何も「悟れ」と言っているわけじゃありません。
みんな途中で考えるのをやめますが相対的な考えかたというのを持てば本当は誰でも行き着く所です。
ただ虚無的に何もかも結局無意味だと思って何にもやる気がなくなったらそれが絶望です。


さて何もかも無価値だと考えた状態で、その無価値だと言う理由はそのままになにか別の所から来た理由で、ある一つの物体だけ価値があるということがわかったとしましょう。
とたんに絶望の意味は反転します。
なぜかと言うとそれは結局何もかも無価値だと言う考え方が論理的に何も損なわれずにそれが行なわれることに原因があります。
例えるなら
「お前らは皆石ころと同等の価値しかない、でも俺は石ころが何よりも一番尊いものだと思う。」
ということです。
なんかうまいこと言った感じになっちゃってますよね、そのうまいこといっちゃった感じがことの本質です。


「ある一つの物体だけ価値がある」というのは完全に外から来たモノだと言うことを記憶しておかないといけません。外から来た概念でしかも絶対的で否定できません。
そして何もかも無価値だと言う考えはそれと無関係に論理的に全く正しいのです。
このことからわかることは明らかです、
あらゆるものが無価値であるにも関わらずその中に含まれるあるものに価値があるということはつまり、あらゆるものは無価値であるにもかかわらずあらゆるものに価値があるということです。
(外から来た価値と内の無価値は価値の質が違います、と言うのも内の価値は理屈のある価値ですが外から来た価値は思考の外から来たものだからです。)
部分を肯定するために全体を肯定してしまったわけです。
前の石ころの例に当てはめてみると、無価値が「石ころ」全てのものは「皆」であり、石ころを肯定することで全てを肯定できたということになります。


あるものと言ってきました。確かになんでもいいのかも知れませんが、特に私が言いたいのは人と人の身体です。説明するよりも虚無主義者が自分の身体に裏切られた笑い話でも思い出してくれたらわかりやすいでしょう。
自殺しようとした人が首吊りの紐が突然切れて数メートル落下して「死ぬかと思った」とかそういう話です。
ある人の価値観を決定する要因と言うのはその人に内蔵されているものですが、問題は「その人」と言うのが「その人の心」のことではなくて「その人の身体」も含むということでしょう。


というわけで全てのものは人間と同等の価値をもつ。ということで、
これはまさしくアニミズムなのです。昔の言葉で言えば全てのものに霊が宿っているとなりますが、これは結局は全てのものは人間と大して変わらないという意味でしょう?
つまり全てのものは人間と同様に霊が宿っているということなのです。