読みやすさ無罪

私の一つ前のエントリーがいくつかブックマークを頂いたようで、いやそれはもちろん嬉しいんですが、少し疑問がわいてきました。
話題が時期をおさえられていたことはあるでしょうが、もしかしたらそれ以上にエントリーの前半がふざけた会話形式(名前が適当だったり。やたら不自然だったり。)だったことも原因じゃないかという気がしたんです。


インターネット上の玉石混交な情報から玉だけ取り出すことは出来るのかという疑問には「情報が淘汰を起こすから大丈夫だ」という答えがありますが、ブログのエントリーとかっていうのはおそらく内容の良さと同時に読みやすさがそのエントリーの価値を決めます。価値がないエントリーは淘汰されると言う意味です。
もしそこで淘汰する側である大量のネットユーザー側の情報の価値基準がより「読みやすさ」などに重点があるものだったらどうでしょうか。
「読みやすく間違った情報」と「読みやすく正しい情報」だったら淘汰は正常に起こって「読みやすく間違った情報」がインターネットの中により埋もれるでしょう。
しかしもし「読みやすく間違った情報」と「難解だが正しい情報」がどちらも淘汰を起こした時「読みやすく間違った情報」の方が淘汰により生き残るということが起こるかもしれません。
テレビの低俗化のようにインターネットの低俗化とでも呼びましょうか。


まあこの話はだいぶ悲観的に見た話で、楽観的に見ると情報というのはそれそのまま伝わるのではなく変化して伝わるものですから、情報が伝播していくうちに間違った所は正しく変えられ読みにくい所はより読みやすく変えられるので結局「読みやすく正しい情報」が残るんでしょうね。
勿論本当にそうかは完全に素人の私にはわかるわけはないんですが。