悲観的性善説

「皆さんの善意に期待したい」
と言う言葉は胡散臭いです。
「一人一人が良識を持って行動すればいつか世界平和は実現する。」
胡散臭い。世界平和が胡散臭いのではないので注意。


「日本人」が多分大昔から知っていると思うのは誰かにとっての善意が誰にとっても善意だなんていう単純な話は何処にもないと言うことでした。
善意の行動が悪しきことを引き起こすなんていうのは、相対的な立場をとれば当然あること。千年前からニヒリズムのしみこんでいる日本人には当然の話です。
そのおかげで日本では「人間性悪説」と「人間性善説」の論争などは起こらなかったと思うのです。*1
まあ西洋ではキリスト教の世界観があるのでそこら辺は私には想像も出来ない所ですが。


「悲観的性善説
と言うのはどうでしょうか。コレは日本人の口にも合うかもしれません。
「悲観的性善説」によると悪意と言うものは存在しません。全ての人間は善意によって行動しています。
じゃあどこが悲観的なんだ?と言われる所でしょうがそれは簡単です。全ての行動が善意によって行なわれるので全ての悪しきことも善意によって行なわれているからです。
善意が逆に作用して迷惑をかけるなんていうのはよくある話、また自分に向けられていない善意が自分にとってほとんど悪意とかわらないことは実感できるのではないでしょうか。
世の中の悪いことは全て上の二つの善意によって起こっています。
ですから「悲観的性善説」を支配するのは善意への不信感です。善意から善行を期待しても無駄なのです。


世界は全て善意で出来ています。だから善意を期待すると言う言葉は無意味ですし、人間の良識に期待することも無意味です。あなたが悪意を持って行動していると勘違いしている人間も、その実自分の善意に従って自分の良識によって行動しているのです。(よく調べてみればわかります。本当ですよ。)
皆がいい人になれば世界がもっと良くなると思っている人はどうかしています。だって皆は既にいい人なんですから。


この「悲観的性善説」の問題点とを一つあげろと言われれば、一体自分に対する善意を善意と呼んでもいいのかということくらいでしょうか。
一ついえるのは本質的にどちらでも変わらない説と言うのは否定が難しいと言うことでしょう。

*1:すいません、日本は儒教の影響受けたんだからそんなことないかも。ていうか多分そんなことない。