自然

それっぽい文章を考えた。

全然そんなつもりはなかったのに、突然どこかから湧いてきた。


「人間が外の自然を制圧したあと、内なる自然が人間を脅かす。」


それっぽいというのは含蓄がありそうというような意味だったが、
あまりにそれっぽいと思ったので、検証してみる。


人間という言葉は、大切なキーワードだ。この場合人間性とかヒューマニズム(同じだ)なんかの動物と人間を分けると考えられているものの事で、生物としての人間のことでは全くない。


人間性とは何か。
それを理性による幸福の追求だと考えてみる。
幸福というと聞こえがいいが、要するに本能的なところに起因する快楽のこと。快楽を理性的に追求するのが人間性だととりあえず置いてみる。


例えば、
難破した、巨大な船の救助船。
巨大な船だから救助船も大きくて何十人もの人が乗っている。
数週間漂流して、助けが来る当てはまったくない。
食料が尽きてからだいぶ経った。
腹が減って死にそうだ。


そのとき、
そこの太った婦人を解体して食おうというのが動物性。
助かった時に、警察にチクられると困るからもうちょっと我慢しようというのが人間性
しかしこの場合は時間がたつにつれてあいまいになる。


別の例。
ヘンゼルとグレーテル
お菓子の家を食べて魔女につかまる。
そのままなべに入れて食べてしまう魔女の動物性。
太らせて食べるのが人間性



人間はその人間性でもって、自然を克服しようとしてきた。
肉食獣、飢餓、疫病、その他の天災は理不尽に人間に死をもたらす。
死は恐怖で、苦しみの最たるものだ。人間はそれを避けるための多少の苦しみをいとわない。
獲物をとるための石槍を手に豆を作りながら削りだす原始人。
成績を上げるために徹夜を続けるサラリーマン。

人間性は理性によって最大の苦しみを小さな苦しみに分散させようとし、また小さな苦しみをいとわず大きな幸福を得ようとする。


さて、人間は大体身の回りの自然を制圧した。
人間は大きな苦しみから開放されて、小さな苦しみの代わりに大きな幸福を、快楽を得たのか。
違う。その代わりに別の苦しみが、脅威が膨れ上がった。
今人間の脅威として現れてきたものは、さらに大きな自然の脅威ではなくて、人間自身が引き起こしたものだ。


なぜか。
とみんな考える。
合理主義は破綻したのか。
自然を押さえ込むやり方が間違っていたのか。
人間は自然に帰るべきで、これまで手に入れたものを捨てるべきか。
少しやりすぎたのか。


みんなそっちの方に行く。
しかし少し考えてみればわかる。
今のやり方の何処が一体合理的なのだ。
合理的に考えれば、いま小さな快楽を追いかけて、全体の死という苦しみを手に入れるより、もっと効率的な快楽追求の方法が見つかるだろう。
そういう考え方で今までやってきたはずだ。
合理主義はその面では間違っていない。

非合理なことをするから、脅威が生まれる。
人間の非合理性は人間の動物的なところ。
本能。


本能は人間の中の自然で、自然だからそれは不条理で理不尽だ。
だから人間を脅かしている。
何を間違えたかって、制圧すべき自然が人間の外にしかないと思い込んだことだ。


本能のために本能を制圧する。
それは矛盾していない。制圧というのは滅亡させるという意味ではないから。


人間を脅かしているものはやはり自然なのだ。


矢面に立たされるべきなのは、合理主義でもこれまでのやり方でもない。
それはなんの解決にもつながらない。