実現できない「理想」のご利益

ニヒリストは「理想」を持とうとしにくいモノです。
実現できないものには意味がないと思っているからかも知れません。
しかしそれに向かって頑張って実現させることだけが「理想」の意味ではありません。実現できない「理想」にも価値があるものです。


いったん理系の世界へ目を向ければ極端にわかります。
絶対にならない絶対温度、大きさのない点、幅のない線、存在しない理想気体、摩擦のない滑らかな地面も現実にはありえません。 これらはすべて「理想」です。つまり「理想」と仮定したところで物を考えているのです。ここにはそんなものがいっぱいで上げるときりがありません。もしかしたら数学や物理なんていう学問は「理想」でいっぱいに詰まった学問だと言ってもいいかもしれません。
現実にないそんなものばかりで考えるのは「現実的でない」でしょうか。しかしその存在しない「理想」で考えることでしか「本当に正しい答え」というものは実の所出て来はしないのです。


さて、理系の世界の外での実現しない「理想」の大きな意味は自分への理解を深めるために役立つということです。
極端な話人間は「無知の知」以上の知をなかなか持つことがありません。それ以上のことは思い込みかもしれないものの上にしか成り立たないからです。(だからこそ自分の「身体」と言うものが重要なのですがそれはまた別の話。)
「理想」は自分が「理想」からどれほど離れているのかについて知るのに役立ちます。つまり実現する必要はないわけです。それだけで十分価値がありますから。
自分が「理想」からどれほど離れているかということは、自分がどれだけ間違っているかと言うことと同じです。これがいわゆる「無知の知」ですね。
無知の知」は、知らないと言うことを知っているというシンプルなものですが、「理想」を持っていれば「理想」が実現しなくても、「理想」の「知」がどれくらいのところにあるのかということを予想できます。


自分が正しいという思い込みは、自分の上に「理想」を持たないせいです。「理想」を実現した自分が知るべき真実は「理想」でない自分が知っていることとは必ず違います。
所詮現実はよほど運が良くないと不完全でどこか足りないものですから、元の数が間違っている計算は答えがもっと間違っているように「理想」でない者の答えは大きく間違っていってしまいます。
そしてまた「理想」が出す答えだけが正しいのも確かなのです。
だから私たちはいつも「理想」だと仮定して、今の不完全な数から近似値を出さないといけません。
正確に「理想」を認識し自分がどれだけ「理想」に近いかよく考えれば同じ不正確な材料からでもより正確に、「理想」の結果がどれほどの幅を持っているのか予想できまた、「無知の知」をより正しく知る事が出来るでしょう。


ですからたとえ実現できないとしても、完全無欠の論理や、完全な自主、完全な平和主義、完全な平等、完全な自由、にはいまだ考える意味があり、しかもその存在しない完璧に完全な「理想」のそれにしか本当の価値は実は全くないのです。