靖国問題の問題の問題はこんな感じか。

私は靖国問題には最近は余り触れる機会がないというか、そもそも新聞TVニュースインターネットどれにも余り触れる機会がなかったので靖国問題については脳裡を掠めもしなかったのですからこの文章は全く木走日記のエントリー頑固でやっかいな『靖国原理主義者』のみなさん - 木走日記に触発されて書いているわけです。まあ便乗ですが、機会と気分が重なるときも余りないものですから、まあ要するにきっかけの問題ということで。

さてその「木走日記」ですが、これは何で両極の人の話がかみ合わないのかって言う話をしたんですよね。(違うか)生がきの例えはおもしろいですが(わたしは好きでも嫌いでもないです)、わざわざカテゴリー分けする必要もないような、いやあるか。


さてとりあえず前提として置かれているポイントで気になるのは

カキが好きか嫌いかは理屈じゃないわけですが、大部分のカキを普通に食する人間にとっては、「カキ大好き人間」も「カキ大嫌い人間」もいていいわけですが、自分が「カキが大嫌い」なことを理由に「カキはその存在そのものが悪である」とか「カキを食する人間は下等である」とか、拡大解釈されちゃうと、これはこれで困っちゃうんですよね。

引用しすぎですが、気になるのは最初の所。カキが好きか嫌いかは理屈じゃないでしょうが靖国が好きか嫌いかは少々理屈の入り込む隙があります。
それは例の右翼と左翼側のの歴史認識の違いです。太平洋戦争、大東亜戦争のおける日本のポジションの把握のちがいによって靖国神社に対する印象は全く違ってきますから。
歴史と言うものは勿論一つしかないわけですから、(私が)面倒なのでどちらにも肩入れしないで言うと、お互い自分の歴史が正しければ相手の歴史は間違っているはずです。よってお互いに間違った歴史を教えられたから、つまり美味しい生がきをまずいと(或いは毒だと)教えられたからカキを嫌いにになり、まずい生がきをうまいうまいと言われたから好きになったという理屈が成り立ちます。(しかしこの場合カキの例えは余りうまくないですね)

もちろん同時に個人の性格などの理屈じゃない部分が入り込む所もあることになりますがしかし両極端に限って言えば、それだけ話が食い違うということを「理屈じゃない」部分だけに理由を求めるのは不自然でしょう。(と言っても「木走日記」は多数派が対象ですから、多数派にとっての本質はその通りかもしれませんが。)
いわゆる「歴史問題」ですね、そうなると私は歴史問題はうんざりだから他の人に任せたいと思いますw。歴史問題について書くと不毛な気分になるのは、ネットで自分と意見の違う人を説得できるわけないと思うからでしょうか。(ていうかやってる人は沢山いるってこともあるし。)
葉隠」によると他人の間違いを正す時はその人と親しくなり自分のいうことなら大体聞いてくれるような関係にしておいて、そして切り出す時はまず相手のいいところを褒めてからそして初めてさりげなく相手の間違いについて言わないといけないんだそうです。(仮にも右翼を名乗るなら葉隠でも読んでみろよとか言いたくなるのが、私がネト右に感じる反発の正体でしょうか?いや、名乗ってないならいいんですよべつに)

政治の問題は心の問題だよ

さて靖国問題で描かれる構図「心の問題か政治の問題か」については少々不満があります。こんなものはわかりやすくするための無理やりな二元論でしょう。「木走日記」の場合わけに文句はないのですが、(これまた便乗させてもらいますw)「木走日記」でいう靖国問題に対する四つのグループ、首相参拝の「強い賛成派」から「強い反対派」ですが、そのうちの「強い賛成派」は靖国問題を日本人の「心」「信条」の問題だと主張しているわけです。これの論拠のひとつは憲法何とか条の「個人の信条の自由が云々。」(全然知らないw)であるということにしても良いようですね。しかし思い出してみると彼ら「強い賛成派」は中韓からの批判に対して内政干渉だという言い方で反論してもいるらしいじゃないですか。
靖国問題が個人の信条の問題ならば政治とは関係ないんだから中韓の批判は内政干渉じゃなくて個人の信条への干渉(?)という良く判らないですがそんな感じのものとして反論した方が筋が通っていますね(首相の参拝については特に)。
こんな矛盾の発生は彼らが心の問題と言いながら実際の所政治の問題として捉えているということをわかりやすく示しているのではないでしょうか。
賛成側最強硬派のはずの彼らですが、最強硬と言うには中途半端であるというのが実際です。最強硬派であるならば首相の参拝を批判されたら、「個人の信条」だからなんていういいわけはしないで「国の代表として行くのであり、それは勿論問題ない。」というふうに言うはずだからです。(いや、最強硬派でさえ中途半端であるのが実態だという失望の声が右から聞こえてきそうですが。)
そうでないのは国内に対してすでに建前だけでも幾らか譲歩している段階にあるということです。ですから「木走日記」における「強い賛成派」は残念ながら「靖国原理主義者」とは言えません。
ですから「木走日記」で「強い賛成派」に分類された人たちの心情というのはたぶん、自分たちがある程度柔軟に対応しているのに反対派はちょっとおかしいんじゃないか?という感じかもしれません。どちらにしろ話はかみ合わないでしょうが。
しかし靖国問題原理主義者が反対している側にしかいないと言いたいのではありません。たぶん「強い賛成派」の一部は靖国原理主義者との間で両方に譲歩してつな引きしてる人なんじゃないかなと思います。靖国原理主義者はもちろん靖国参拝があらゆる意味で正しいと言ってる人のことでしょう(神主さんとかかな?)。

さて心の問題OR政治の問題についてですがここでとりあえず、政治の問題は心の問題でもあると言っておきましょう。
上のように首相参拝の賛成側が心の問題だという時にはすでに原理主義としては少々譲歩を伴っています。これは本当は国家の問題だと言いたいのに個人の心の問題として賛成しなければいけないからですね。そうするとその「個人の心」という部分をのけた原理主義よりの本音というのは根拠は何なんだというところに目を持っていくと、そもそも保守であり、金銭的な国益を排してまでもというところからもやはり、結局もっと大きな意味での信条、心にあるように見えます。
「国の心」というとまるでワンピースみたいですがwこれは要するに「国家の品格」のまんま同じことですよ。「国家の品格」いまだにやたら売れてますから、何であんなに売れるのか不思議ですけど、こういう引用しちゃいますが。要するに金銭的な国益を排してまでも通すべき「国家の信条」を持ったほうがいいよっていうことで、首相の靖国参拝もまた賛成派にはその一つとして捉えられているのです。

さてここで、建前だけでも棄教しなければならなかった哀れな隠れ切支丹のような参拝賛成派が「個人の心の問題」という観音像を隠れ蓑にして裏に「国家の信条の問題」というマリア像を隠しているという逆説を描いてみるとどうでしょうか。まあ不快感程度のものはだいたい無意識的なものが原因だったりするから描ける逆説です。
そうすると参拝反対側の主張(の一部のやたら簡略ですが)、仮にも一国の首相の参拝なのだから公人でありだから心の問題でない。(ここでいう心というのは首相の個人としての心のことでしょう。)そして参拝して外国に反発されると国益を損なうから首相の靖国参拝はやめた方がいいという意見も同時によく聞かれます。
これに参拝賛成側が「国益のためなら国家の信条なんかどうでもいい」というニュアンスを感じてやたら反発してしまっているのではないでしょうか。だから双方ともが原理主義でなくても、目くじらを立てあって話にならないっていうのはこういうところにも原因があるんじゃないかなと思います。

靖国問題でお互い「心の問題だ」「いや政治の問題だ」「どっちだろう?」と言い合っても合意できるはずはなくて、その前に「国家の信条として、国の代表の靖国参拝は正しいのか間違っているのか」というところの筋をきっちり通していないのが問題なのです。

靖国問題の問題の全体像というのはこんな感じではないでしょうか。
国家の品格」もやたら売れてるときですし、金銭的な国益などをいったん置いておいて「国の信条」としてどうなのかという点でいろいろ決めるにはいい機会ではないかと思います。
勿論そうなると「歴史問題」が絡んできてしまうので私はやっぱりうんざりして誰かにマル投げしたくなるんですが。