善悪っていうかなんていうか

最近思うのは、中途半端は悪で極端だとか徹底しているとかということは善だということです。
誤解されないように言うとこの場合、中途半端に極端なのは悪で、極端に中途半端なのは善です。
善悪で言えば人って言うのは暗闇の中にいるというイメージがあるんですよね、暗闇の中ででたらめに歩いたら元いた場所も今いる場所も見失ってしまうじゃないですか、だから最善の方法はまっすぐ歩くことじゃないかと。それ何の宗教って感じですが。
それに中途半端にはいつも欺瞞が起こりやすいじゃないですか。

だから論理なら完全無欠の論理、感情論なら全て感情論でやってみることだけが正しいんじゃないでしょうか。壁に当たれば当たるで(本当につぶせない壁かどうかは確かめなきゃいけないけど)当たらなければわからないこともあるわけですから。


すいませんこれじゃあ抽象的だし意味不明ですね。
言い直しましょう。
私はどんなに違う考え方や価値観、その人の行動を決定する真髄であれそれを完全に徹底するようにしようと思えば、それは正しい方向に向かうのではないかと思うのです。

例えば左翼の場合、彼らは平等公平は正しいと考えているはずです。しかし歴史問題での彼らの拒否反応を見ていると、平等が徹底されていないように見えます。どうも彼らは今の自分たちと昔の人たちを平等に見てはいないようです。
彼らの考えというのは今の自分たちは思想の自由や平等が許されているが昔の人たちは政府とかにだまされていたので同じことを繰り返してはいけないということのようです。
しかし昔の日本人はだまされていて今の自分たちはだまされていないという根拠は何処にあるんでしょうか。昔の日本人が固く信じていたことと今の自分たちが、彼らが信じていることの違いは何処にあるんでしょう。
むしろそれは彼ら現代人の傲慢によるものだと思います。
それに平等が正しいのなら全ての意見を平等に汲み取って考えるのが正しいんじゃないのかよということも思います。


論理や合理主義についても同じことが言えます。
論理で言えば「国家の品格」でも指摘されてたように論理の始まりというものがある訳ですが、そこに神をおくとかいうことは論理を徹底していないということです。全てを論理的に説明できる完全無欠の論理体系を目指すべきでしょう。
(宗教をやるならそれはそれでいいと思いますが、混ぜて中途半端にするのがいけないのです)
よく論理でがちがちに固めたら息苦しくて生きていけないとか言う人がいますが、それはその論理が誤差を計算に入れていない不完全な論理だということでしょう?
合理主義では、合理主義によって自然破壊がなされたのであればそれは本当に合理的ではないのではないかとも考えられます。
また自然破壊を抑えるためには欲望を抑えなければいけないという考えは、欲望=人間の中の自然、と考えれば自然を征服すれば人間は幸せになるという考えと全く逆行していません。


こう考えると批判しうるものというのはそれ自体の中の考えの中で批判しうるのではないか、という気がしてきます。