唯我論は必ずしも悪くはない。

唯我論は必ずしも避けられるべきじゃないし、条件さえ揃えばそれで困ることもありません。
少なくとも前提や通過点としては必要なものです。


なぜなら生物の普通の状態というのは唯我論的だからです。


たとえば人間ほど脳が発達していない生物は人間のように状況を想像したりしませんから、刺激に対して反射的な行動をしているといえるでしょう。明るい所に集まるとか、温めると分裂するとか、大きな音を聞いたら逃げるとか、寒くなったら穴を掘って眠るとかの類です。
どれくらい脳が発達しているかにもよりますが彼らにとってはその刺激は実の所その刺激自体以外は意味していません。
刺激からその刺激を発する存在を認めるにはある程度想像力が必要なのです。
そして原始的な生物になるほどそんなものはなく(ある必要もなく)、他の存在というものは存在せずその刺激しかないという状態にあるわけです。
これはどうしようもなく唯我論的です。

人間ほど脳が発達したらどうでしょうか。
人間は自分を基点にしか周りを見ることが出来ません。勿論聞くことも感じることも出来ません。誰も自分という視点から離れることは出来ないわけです。
ということは自分は自分以外の存在に自信を持てません。
また人間も原始的な生物と変わりなく実際に感じられるものはそのものによる刺激であってそのものではありません。
だから唯我論が否定されるのは主に想像力が他の視点というものを作り上げることによるのです。空間的立体的に状況を想像することも唯我論を否定します。
要するに唯我論を否定するのは人間の脳の中の想像によるものしかないということです。

まあ唯我論的に考えてもどうせ思い通りにはいかないんだから(或いは自分の心が思い通りにいかないのと同じだとも考えれば唯我論は全然破られはしないんですが)同じことじゃないかと思います。


しかしながら唯我論的であることはすなわち想像力に欠けるということで、唯我論自体を考えることは想像力のいることだということが分るでしょうか。
唯我論的であることは自分の受けた視覚や聴覚的な刺激がそのままモノそのものだと信じてしまうことであり、他者の存在は認めるけれど他者から見た自分が見たのとは違うモノを想像できないことでもあります。
先ほどの原始的な生物の場合が反射的だから唯物論的だとすると、この場合は受動的であるために唯物論的だという感じでしょうか。或いは反射的想像とでも名付けましょうか。


矛盾しているようですが原始的な生物の場合は人間の立場から見たので、今度は同じ立場から見ているという違いがあるだけです。
原始的な生物よりは唯我論的でないともいえますが、ある意味ほとんど変わりません。


しかし唯我論を考えるということは自分の受けた刺激は刺激でしかないためそれによる想像は、他の刺激を受ければ全く違うものになるという可能性を受け入れるということです。それはつまり全く違う世界観を持つ人を受け入れるということでもあります。

思い込みや先入観で話が通じないというのは全て人間が唯我論的であるという前提を通過していないためだと思うのですがどうでしょうか。