武士道はどのように成立するのか。

さて武士道がどんなものかについて書くのだけれど、これにはいろいろ問題がある。
武士道について書くひとを色々見てきてもあまり気にしていないようだったが、そもそも武士道を体現していた(といわれる)武士という人たちはとっくの昔に死んでしまっていまは一人たりとも生き残ってはいないのだ。
だから当然私の思う武士道と言うものは葉隠から想像した、私の武士道という枠を出る事が出来ない。だから正しさを主張するのは難しい。まあ色々いわれる武士道の一つと思えばいい。

武士というものはその行動自体はよく知られているがどのような過程によってなのかはよく分らなかったためきっと超人的な精神力あったのではないかとかいう風に別の次元のものとして見られている向きがある。私はそれには反対で武士道の真髄はその行動自体ではないのではないかと思う。
そこで武士の行動様式などをとやかく言うのはやめる。ていうかそれは無理だし。
そう言うわけでこれは多分私が想像した武士道という思想なんだと思う。

武士道はどのように成立するのかという想像

武士道の根っこ、始まりは無常観である。
それは今の言葉で言うと、虚無主義などのことであり価値というものについて考えた時多くが必ず行き着く答えでもある。人間は100年もしないで死んでしまうし人間が大切に思うものも何もかもやがては全て消え去ってしまう。それでは富も名誉も幸福も何もかもが虚しいものではないかということがこの無常観だ。
無常観は形を変えて現在でも生きている。
日本の長い歴史を振り返ってみると平安から江戸まで無常観が底に横たわっていることが分る。日本は無常観を受け入れて先に進んだ国であり西欧文明は何時までも残る石と鉄の文明を作り「永遠」に固執してそこにとどまっている。
しかし今はそんな世界観は関係ない。

ここに一人の人間がいる。彼はよりよく生きたいと思っている。つまり正しく生きたいと。
しかし彼は無常観を持っていてどんな価値も移り変わって消えてしまうことを知っている。つまり今どんなに正しいことでも百年すれば悪に変わるかもしれないし、そもそも自分が正しいと思っていることが他人にとって絶対悪かもしれない。そもそもそんなものは悠久の歴史と比べると取るに足らない無駄なものだ。彼はそれぐらい看破している。だから彼は容易に絶対的な価値観を受け入れることが出来ない。
彼は色々な価値観に出会うが結局の所「そんなことしても意味がないじゃん。どうせみんな消えてなくなるんだし(笑)」という思いが消えない。
彼は色々な価値観がある意味嘘であることにも気付いているのである。

しかし彼が正しく生きたいという気持ちがとても強いならば、二つの答えが見つけられるだろう。
第一に比較すること。これは消極的な正しさの追求だといえる。無常観を持った彼から見れば全ての行為は無意味だとも言える。しかし私利私欲に走って他人を犠牲にするとか弱いものいじめなどの行為は明らかにそれ以下であろうことは明らかなように見える。特に何がどうなるか分らないという無常観からしたら、他人を苦しめることは自分を苦しめることとあまり違いがないのであるからそれを理解していない彼らは少なくとも自分よりはおろかである。つまり比較的に自分は正しい。
というわけで、何々はしてはいけない、何々をしない方が正しいという価値観が生まれる。正しいことをするのではなく間違ったことをしないということは正しいという考え方で消極的だが確実に正しさを追求しているのである。
第二。
彼は価値観というものがある意味全て嘘であることを見抜いている。なぜなら全てのものは無意味だからだ。だから価値観というものはそれを持つ人間をある意味だまさなければならない。完全にだまされた時人間はそれが絶対に正しいと信じることが出来るのだ。
彼はこう考える。自分は絶対的な価値観がないことを知ってしまったが、自分を完全にだますことが出来る価値観をもう一度見つけることが出来ればそれはある意味絶対に正しいのではないか?
完全にだまされるということは完全に信じるということである、彼が本当に信じることが出来ればその価値観は本物になることが出来る。そうであればその価値観はに沿って正しく生きた彼は本当に正しく生きたといえるだろう。
しかしそれはなかなか難しい。彼は何も知らない馬鹿になる訳にはいかない。無常観は少なくとも間違ってはいないのだからそれを捨てて忘れるわけにはいかないのである。またそうしようとしても一度分ってしまったら無理というものだ。
そして無常観というものは全ての価値観と対立するものなのである。
だから彼はある価値観が嘘だと知りながら自分をだまそうとしなければいけないという状況に陥る。彼が本当に正しいとその価値観を信じれば彼は正しかったといえるが少しでも疑えばそれは欺瞞に変わる。彼はどうすれば自分で自分を完全にだますことが出来るだろうか。しかし実際そんなことは不可能に近い。
ではどうすればいいのか。

武士道におけるその答えは死である。
彼がたとえ心のそこで自分の価値観に疑いを捨てることが出来なくても、その価値観によって死ぬことが出来るならば彼はそれを本当に信じていたことにしてもいいというのが武士道なのだ。
極限においても自分をだますことが出来るならばそれは本物といってもいい。それはある意味許しであるが彼はそれによって自分を肯定することが出来るのだ。