国家の品格と葉隠入門

国家の品格 (新潮新書)葉隠入門 (新潮文庫)
人に薦められて最近、「国家の品格」という本を読んだ。なかなか素晴らしい本だと思う。偶然に三島由紀夫の「葉隠入門」を同じときに手に取ることがあったので、これも縁だと思ってこの二つを簡単に比較解説してみることにする。一番の問題点は私が新渡戸稲造の「武士道」を一度も読んだことがないことだがその問題を回避しても比較は充分可能だと思う。
第一に、この二冊は基本的な構造と要所が良く似ている。どちらも現在の―葉隠れ入門の書かれたのは少し昔だが―社会への批判と武士道によってそれを解決できるのではないか、という点では全く同じなのだ。
今まさに売れている国家の品格はともかく、葉隠入門については全く知らない人ばかりだろうから基本的なことにも少し触れておこう。葉隠入門という本はその名の通りあの「武士道というは、死ぬことと見つけたり(武士道の本質は、死ぬことだと知った。)」という言葉で有名な「葉隠」を、それを座右の書だという三島由紀夫が解説したものだ。葉隠といえば戦前の愛国主義教育に利用されたというイメージがあるしそれと三島由紀夫の組み合わせだと思ってしまうと、いかにもという感じがしてちょっと敬遠してしまう人も多いだろうが、意外にも三島由紀夫はそんなイメージを壊しながら淡々と葉隠の持つ思想について欧米の例などを使いながらあくまで客観的に語っている。イデオロギーの臭いが全然感じられないのだからこれはさすがだなと思った。国家の品格では逆に筆者自身を道化のように書くことで同じ効果を得ようとしているのではないだろうか。
では違う部分も上げていこう。この二つの本では扱われている武士道が違っている。国家の品格では分りやすい例として新渡戸稲造の「武士道」を上げている。これは欧米の騎士道精神と同じような道徳の規範としての武士道だ。筆者は現在の近代的理論至上主義の限界を指摘し理論だけではなく理論の出発点が大切なのだといって、その出発点に武士道を置くべきだという。それに対して葉隠入門の方はその名の通り「葉隠」の武士道である。国家の品格葉隠のことに触れたのは一箇所だけだと思うが、それは確か、葉隠も武士道の一つの見方に過ぎないというような言い方だった。
葉隠国家の品格の武士道はおそらく大きく違う。国家の品格の武士道はあくまで生きる上での行動の規範であるのに対して、葉隠では死が強く意識されている。誤解されないように言うと、国家の品格はある意味死に触れずに、どう生きるかについて書いてあって、葉隠では死を前提としてその上でどう生きるかが主に書かれている。
もう一つ大きな違いがある。それは江戸時代の扱いだ。国家の品格を読んでいると武士道精神の生きていた江戸時代が世界の何処よりも良い所だったように思えてきて、日本人としてはすこしこそばゆい気がする程だ。それに対して葉隠入門はそもそも葉隠自体が、元禄永宝時代の人心の乱れ、社会の廃退に対して武士はこうあるべきだという意味で山本常朝という人がアンチとしての理想を書いたという面がある。三島由紀夫が言うには、葉隠で、こうであるべきだこうあってはいけないという言葉の裏には実際にはそれが守られていないという現状を感じなければいけないのだ。三島由紀夫葉隠の時代の江戸の社会の廃退と近代の社会の廃退(問題点)の共通点をいくつも挙げている。国家の品格葉隠入門を同時に読むと少々国家の品格の分が悪いようなのは、武士道精神の実施されていたはずの江戸社会でも現代と同じような社会の乱れがあったとすると国家の品格の論理の説得力が弱くなるからだろう。しかし実際は新渡戸稲造の武士道は善悪を決める指標であって、キリスト教の広まっている国が一向に慈愛に満ちているように見えないのと同様に江戸時代でそれが確実に守られていたと考える方がおかしいのだ。
二つの本の最終的な意義もまた異なっていて面白い。国家の品格はその名の通り国家の指標だと考えることが出来る。根本的な価値観が間違ったものの上に立っているように見える現在に、個人がひいては国家の行動を何を基準に行なうべきかについて新しい価値観を示している。
対して葉隠入門は個人がどれだけ現実に対して純粋に生きられるか、どういう生き方が一番良いのかについて論じているのではないかと思う。

最後に個人的な意見だが、どちらがより良いか私が選ぶとしたら葉隠入門のほうだ。葉隠の論理には欺瞞が入り込む隙がない。行動が大きな場所を占めていて複雑化することを嫌っていることと、死という絶対によって利己の入り込む隙がないからだ。
国家の品格の武士道はこれまでの価値観と同様にいつの間にか腐ってしまう可能性が大だと思う。ちなみに私は日本の一番悪く伝えられている伝統は本音と建前だと思っている。