平和主義者と自称するだけでは不十分であること。

大江健三郎さんが少し前に朝日に時評のようなものを書いておられました。
その内容というのは、戦争に関する考察でしたが
印象に残った部分があります。

たしか
「戦争をなくすためには、個人が日常の中で戦争につながる行動や感情をなくすことから始めなければいけない」
うろ覚えなんで実際とは全然違うかもしれませんが、内容的にはこんな感じでした。

どういうことかというと、私たちが意見の違う人を排斥したり、お互い理解するために話し合おうとしなかったりすることを続ける限り、人と人の争いは無くならない。よって人と人の争いの究極的なものである戦争はなくならない、というような意味でしょうか。
個人レベルの争いの延長としての戦争という見方をするべきだということかもしれません。

これを大江健三郎さんが言ったことが重要だと思うんです。

こっから本題なんですが

日本には、いや世界中には戦争反対の平和主義者だと自認している人たちがいますよね。
その人たちは戦争を肯定する意見の人や戦争大好きな人の考えを理解しようとするでしょうか?
意見を吟味しようともせずに全否定することがほとんどのように見えます。
それどころか人間的にも否定して攻撃している人までいます。

有名なところでは
http://d.hatena.ne.jp/yuichi_rx7/(リンク切れ)
では不特定多数の人を「低能」「猿」呼ばわりしています。
確かにその人たちは猿並みの低能なのかもしれませんが、本当だとしても相手の反発を買うことはわかりきっていますし、相手が人間である以上争いを呼ぶ行為であることは間違いありません。

争いを引き起こすこのような人は、“大江健三郎さん”の個人の行動の延長が戦争につながっているという意見に沿って考えると、言葉では「平和主義」をうたいながら、その行動は「平和主義者」ではなく戦争を望んでいるということになります。

他人の意見を全否定するような「平和主義者」もその行為は戦争を起こそうという方向に働いていると言えます。


結局そういう人たちは「平和主義者」でなく「戦争主義者」と呼ぶべきだと言う結論に話は行き着きます。

しかもその根拠は、「自称平和主義者」がけして否定しないであろう、「九条の会」を作ったノーベル賞受賞者大江健三郎さんの考えなのです。

この結論は間違っているでしょうか?