自分でもどうかと思うけど確率に関するコメント。


とてつもない奇跡 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ


一等だろうがはずれだろうが、宝くじの「その番号」を選ぶ確率は同じですから。
百回連続で当たるのと、百回はずれたその番号を選んだ確率はあとから考えると同じくらい少ないのです。
嘘だというなら、あなたはもう2度同じ番号で百回はずれを出せますか?


誰があたりだなんて言ったんでしょう?
はずれかあたりかはどうやって決めればいいでしょうかねえ。




つまりですね、これを奇跡だと思うためには「自分は宝くじの当たりだ。」というポジティブ思考が前提に必要なんですよね。
「チビ・デブ・ハゲ・ワキガ・ジコチュウのキモオタが、小倉優子と結婚する」のは考えるまでもなく素晴らしいこと(小倉優子別に好きじゃありませんが。)かも知れませんが、「じぶん」という存在を素晴らしいと思う肯定的思考は、私たちとってはハードルです。悲しいことに。
数字の羅列を見て何となく圧倒されて納得してしまっても、現実にぶつかって我に返ったとき、私たちはそのハードルを越えられるでしょうか。


悲しくて笑えることにそのとき、散々並べられた数字なんて何の役にも立たないでしょう。
だって数字を見て思うことは主観ではないですから。ただの半端な客観ですからね。
「主観*1」に数字なんて客観においてと同じくらい「意味無い」ですから。(確率自体に価値を感じる数字フェチの人は確かに存在するでしょうからその人は別ですが。)


そしてやがて気付くのは、必要だったのは自分が「あたり」かどうかをすっ飛ばした数字の根拠ではなく、単に自分を肯定することだったのだ、ということではないでしょうか。単なる自己肯定。
そうです。私たちには意味も価値もあります。体力を付ければハードルはきっと越えられます。
でも、まあ私のイメージですけどね、「確率的に高いから価値がある」というような理論武装で自己肯定するような人はいざ危機が訪れた時、体力減るまでそれにすがって、突然ダムが決壊するようにつぶれちゃうんじゃないですかね。
主観的だろうが客観的だろうが前提が無いと数字には意味が無いもんですからね。見事にからっぽですから。あーあ。



とりあえずこういう啓蒙ではNHK(日本ひきこもり教会)とかになるととても太刀打ちできません。
残念です。



そういえばこれで、昔小学校で「私たちは三億個の精子の中から選ばれたたった一つの精子の成長したものなんです。すごい確率です。」とか(だから命は大切なんだみたいに)言われたのを思い出しました。あの時は実にくだらないと思ったけれど・・・。
私はむしろ残りの2億9千9百9十9個の人になれなかった精子たちに感情移入してしまい、何の価値も認められず下水に捨てられただろうか彼らと私が、別に“私”でなく“彼ら”だったとしても何の不思議もない関係であったのだと思うと切なくなります。(或いはそれは障害者に生まれるか健常者に生まれるかというような違いと同じかもしれません。)
それならば“私”に価値があることはそんな儚い土台の上にしか成り立っていないのです。

*1:というか主観と客観が分けられるなんて幻想だと思いますが、それは置いておいて。